説教 マタイによる福音書16章13~20節 「天の国の鍵」
- 西川 幸作
- 3月25日
- 読了時間: 7分
更新日:4月6日
招きの言葉
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(しんり)をもって
父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネによる福音書4章23節)
説 教 マタイによる福音書 16章 13~20節
「天の国の鍵」
イエス様の弟子の1人、シモンは、イエス様から何度も注意を受けています。
14章22節以下のイエス様が湖の上を歩かれると言う物語です。水の上を歩いているイエス様にシモンは「主よ、わたしに命令して、あなたと同じように水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願いました。そこでイエス様は彼に「来なさい」と言われたので、彼は歩き出しました。ところが途中で強い風が吹いているのに気づいて、怖くなり、沈みかけるのです。そんなシモンにイエス様は「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と問います。
別の箇所でもシモンはイエス様から注意を受けます。今日の箇所の次の箇所16章21〜23節です。
イエス様は「祭司長や律法学者たちに殺されるが、3日目に復活する」と弟子たちに打ち明けます。するとシモンは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って、イエス様の歩みを受け入れなかったのです。するとイエス様はすかさず彼にこう返答しました。「サタンよ、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」
この様にイエス様はシモンをかなり注意しています。
これらの箇所から、シモンは決して信仰深くないと言うことが分かります。
そんなシモンですが、今日の箇所ではどうでしょうか。
イエス様と弟子たち一行はフィリポ・カイサリア地方を訪れました。この地方はガリラヤ湖よりもさらに北でパレスチナの最北端、ガリラヤ湖に注ぐ川の源流があるところです。多くの人々がギリシア由来の「パン」という神を信仰しています。
ただ少数、聖書の神様を信じる人々もいました。この様なところで、イエス様は神様を信じる人々がどういう信仰を抱いているかを確認するため、弟子たちにこう質問しました。
「人々は人の子であるわたしイエスを何者だと言っているか」。
弟子たちはこう答えました。「人々はイエス様のことを、悔い改めの洗礼を授けていた『洗礼者ヨハネだ』と言っています」。イエス様は実際にヨハネではありませんでしたが、ヨハネの様な生き方をしたので、人々が間違うのも仕方なかったのでしょう。
「それから別の人々はイエス様のことを『旧約聖書の預言者エリヤやエレミヤの生まれ変わりだ』と言っています」と告げました。
イエス様が歩んでいた当時、信仰者たちは『かつておられたエリヤやエレミヤは、この世界の終わりの時に再びこの地上に現れる』と信じていました。人々は『今、ローマ帝国に支配されているが、その支配の時代が終わる時、エリヤやエレミヤがやって来られ、わたしたちを解放してくださる』と信じていたのです。
人々は『そのエリヤ、エレミヤとしてやって来たのがイエス様だ』と信じていたのです。
実際にイエス様は、そうではなかったのですが、、、人々からは印象良く思われていたことが分かります。
この地域の人々は、南のユダヤ地域の律法学者、祭司長などと違い、イエス様を否定せず、信じていたのですね。
イエス様の「人々はわたしイエスを何者だと言っているか」という質問はこの地域の人々の信仰を確認するためだったのです。そして同時にこれは身近にいる弟子たちの信仰も確認するためのものだったです。
その上でイエス様は弟子たちに、こう質問しました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと思うか」
イエス様のことを一番よく知っている弟子たちに向けての質問でした。
シモンがこう答えました。
「あなたはメシア、救い主です。今、この地上で生きている神の子です」
シモンはここで、イエス様は救い主で、神の子、とはっきり答えました。
この答えは全くの正解でした。それは次のイエス様の言葉で分かります。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。(間違っていない)」
ちなみに「バルヨナ」というのは「ヨハネの子ども」という意味です。「ヨハネ」を短縮して「ヨナ」、子どものことを「バル」と言います。
「ヨハネの子シモン、あなたは幸いだ」とイエス様は言われたのです。
冒頭で触れました、彼のイエス様への不信仰の姿とは打って変わって、イエス様をしっかりと信じている姿です。
シモンは不信仰だったり、しっかり信じたり、一体どういうことでしょうか。。
この彼の姿、移り変わる姿、カメレオンの様な姿です。しかし1つ言えるのは、それでも彼は事実、生きて歩み、この後も歩み続けるのです。
そして、この彼の姿は他人事(姿)ではない、と思えるのです。
いつも自信を持って『100%神様が守ってくれる』と信じて歩むことができれば良いですが、それが50%くらいになったり、30%になったり、というのがわたしです。それでも実際に日々歩んでいます。神様が守ってくれることを信じて、前を向いて。ペトロの姿はわたし自身の姿でもあるのです。
かつて『牧師になる』と心に決めて、神学部を受験し見事合格しました。その後、当時、出席していた教会の主任の牧師から時々、「西川くん、本当に牧師になるのか」と何度か問われたことがありました。
その都度、わたしは「もちろんです」と答えていましたが、振り返ってみますと、この問いは、改めて自分の決断を確かめる機会だったということに気づいたのです。
『本当にそれで良いか』、『その道を歩み進めて良いか』と自問自答できたのです。
『牧師になって良かった』と心から思っていますが、それでも『本当にそう思っているか』と問い続けている様な気がしています。
この様な「本当に信仰者なのか」と問うことを、信仰者は経験し続けるのでしょう。
聖書では、不安定さがありながらもシモンは信仰を告白します。
「あなたは救い主、神の子です」
そして事実、イエス様に「幸いだ」と認められたのです。
この流れで最後にイエス様は彼にこう語りました。
「あなたはペトロ、岩。わたしイエスはこの岩、あなたの上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。地上で解くことは、天上でも解かれる」
このイエス様の発言にはいくつか要素があります。
その中でもとりわけ、前半部分の岩、教会、天の国の鍵に注目したいと思います。
「あなたはペトロ、岩という土台だ。その土台に救い主を信じる教会を建てる。教会には、もはや死んだ人々のいる陰府の力も及ばない。そんな土台であり教会であるあなたに、わたしは天の国の鍵を授ける。人々を天国に受け入れる扉を開く大切な役割を、あなたに授ける」
シモンは「土台」となる。そして土台の上に「教会」を建てる。この「教会」を足場にして、地上の人々は上り、そして天国へと導かれる。
よってシモンは、人々が天国に向かう途中にある扉の「鍵」の様な存在だ。
優柔不断なシモンが、土台として、教会として、天国の扉として用いられる。
このシモンの姿をわたしたちの姿に言い換えてみたいと思います。
このわたしたち、シモンのような凸凹な信仰かもしれないけれども、それでもしっかりとした土台としての教会である。人々を天国へ向かわせる扉なのです。
一方でイエス様は23章13節でこう言っています。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは偽善者は不幸だ。人々の前で天の国の扉を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」
天国の扉を開けましょう。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、あなたの導きをいただき、先週も歩ませていただきました。こうして礼拝を捧げることができています。あなたに感謝いたします。
わたしたちは身近にいます友人のために祈ります。
生活に悩む友人がいます。どうかその人の祈りをあなたが聴いてください。喜びと平安をお与えください。
教会員関係者を思って祈ります。関係する済美高校やその他のキリスト教学校を卒業する人がいます。また学校で進級する人がいます。1年間の学びの期間をお守りくださり感謝いたします。これから新しい学校で学ぶ人に良き仲間と指導者をお与えください。引き続いて同じ学校で学ぶ人の日々をお支えください。
Iさんが作業所で働こうとしています。どうかその喜びを感じられますように導いてください。
この礼拝と礼拝後の教会総会を祝福してください。新たな教会役員を選出します。選ばれた中濃教会を支える役員を豊かに導いてください。そして予算を決めます。教会活動によってこの地域に喜びをもたらすことができるように、導いてください。
野宿労働者の支援活動を行って来ました。小さな力ではありますが、これからも関わらせてください。労働者に必要なサポートをさせてください。
この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
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