2026年5月31日 三位一体主日礼拝 ローマの信徒への手紙8章12~17節 「苦しみから栄光へ」
- 西川 幸作

- 6月3日
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招きの言葉
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(しんり)をもって
父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネによる福音書4章23節)
主の祈り
天にまします我(われ)らの父よ、
願(ねが)わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来(きた)らせたまえ。
御心(みこころ)の天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を、
今日も与えたまえ。
我らに罪(つみ)を犯(おか)す者を
我らが赦(ゆる)すごとく、
我らの罪をも赦(ゆる)したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、
悪より救い出(いだ)したまえ。
国と力と栄えとは
限りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。
聖 書
12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
説 教
先ほど読みましたローマの信徒への手紙というのはイエス様の弟子パウロが書いたとされています。
この手紙の中でパウロは、「霊」という言葉と「肉」という言葉を強調して記しています。特に8章で強調されています。
そしてこの「霊」と「肉」というのは、対照的に描かれています。
「肉」というのは、具体的には、「人が神様から離れてしまった状態」、「神様を敵としている状態」、一言で言い換えれば、「不浄(汚れ)の状態」や「罪の状態」のことです。
一方の「霊」というのは、「神様が近くにいる状態」、「神様の力」のことであり、その「神様の力が宿っている状態」や「生き生きしている状態」を表しています。
そしてこの「霊」は先週のペンテコステ礼拝にて朗読しました、使徒言行録2章にあるように、神様がイエス様の弟子たちに与えられた「聖霊」と同じものです。
この後、この「霊」、「聖霊」は、誕生したいくつかの教会で、内部の一部の人たち、教職者のようなリーダー的存在の人たちだけ与えられたのではなく、イエス様を救い主として信じるすべての信者に与えられてゆきました。そして、これからも与えられてゆく、とこの手紙は語っています。
ですからわたしたちもイエス様を、救い主を信じているならば既に与えられ、さらには与えられ続ける、と言うことです。
そして、この「霊」、「聖霊」が与えられていると、この体は結局は死んでゆく体ですが、生き生きとしてゆくというのです。
なぜなら、イエス様が死後に復活されたように、「霊」を与えられた体は死んでも復活することができるからです。
このことを元にしながら、死後の復活を基本にしながら、それだけではなく、さらには、この世で生きる間に、「罪の状態」、先ほどの「霊」と「肉」で言えば「肉の状態」、「神様から見て相応しくない姿」、「死んでしまったような姿」になってしまっても、「霊の状態」に変えられる、「霊の状態」に復活させられる、そういう意味でこの世の命が「生き生きとなる」ということです。
キリスト教会では聖餐式を行なっています。これはご存じの方が多いですが、救い主であり復活されたイエス様の血潮と体をいただくものです。いただくことによって、そのイエス様を受け入れることになります。それはイエス様とされたパンとぶどうジュースに宿っている「霊」がそれらを食べ飲むことによって、わたしたちに移ってくる、与えられる、ということです。それによってわたしたちも「霊の状態」に変えられてゆく、復活の命に預かる、ということです。
このように変えられることで、心から神様を、イエス様を信じることができるようになるのです。
今日の聖書箇所の15節にはこのようにあります。
「あなたがたは、人を奴隷として再び『恐れに陥れる霊』ではなく、『神の子とする霊』を受けたのです。この『霊』によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」
人はこの「霊」、「聖霊」を受けるまでは、神様を信じているようで信じていなかった。ゆえに神様を礼拝することが義務のようになっていった。義務で礼拝をしていた。
しかし「霊」を受けたならば、「アッバ、父よ、神様よ」と心から神様に叫ぶことができるようになる、すなわち礼拝で心から神様に賛美でき、祈ることができるようになる、ということです。
「父よ」と呼ぶ子どもになれる、まさに神様の子ども、神様の相続人になれる、ということです。
ですので「霊」、「聖霊」が存在していることを信じる、ということは信仰者としてとても大切なことなのです。
マルティン・ルターというキリスト者がいました。宗教改革、教会改革をした人物として知られています。
彼は若い頃、ドイツで、カトリックの修道士として歩んでいました。その生活の中で、ローマの信徒への手紙を読んでいました。
しかし彼は、どうしても、この「霊」の人になることができない。むしろ「肉」の人のままである、そのような自分であり、他者もそうではないか、と考えてゆくことになります。
そんな中、あるとき修道院の塔でこのローマの信徒への手紙1章17節を読んだときでした。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」
信仰者である限り、その生涯の初めから終わりまで「神の義」、これは「神様の霊によって正しい者とされること」で、これが保証されているというメッセージです。
この箇所と意味を確認したときでした。
ルターは、突然、目が開かれたのでした。
『神様を信じる信仰者は皆、神様の「霊」が与えられている。そして「霊」の人として歩むことができる。もはや「肉」の人ではない。「罪」から離れている。信仰者にはこのことが前提にある、ということに気付かされたのです。
それによってもう「肉」によって苦しくことはない。むしろ「霊」によって栄光を受け、日々を歩むことができる、ということです。
そしてルターは、まさにこの「霊」によって生き、本当の「栄光」を見てゆく体験をしてゆきました。
わたしたちにも「霊」は与えられています。その「霊」によって、罪赦され、栄光の日々を歩むことができているのです。
お祈りいたします。

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