2026年6月14日 聖霊降臨節第4聖日礼拝 使徒言行録 16章 16~31節 「喜びへ、苦難から導かれる」
- 西川 幸作

- 2 日前
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招きの言葉
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(しんり)をもって
父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネによる福音書4章23節)
説 教 使徒言行録 16章 16〜31節
「喜びへ、苦難から導かれる」
イエス様の弟子にパウロとテモテと言う2人がいました。パウロはもともとイエス様の弟子たちを迫害する人でしたが、どんでん返しのように回心して弟子となった人物です。
テモテはアジア州出身でギリシア人の父親の息子で、このパウロと出会って一緒に旅をすることとなった人物です。
彼らはアジア州のトロアスと言う港町から船に乗ってマケドニア、現在のギリシア北部にやって来ました。
そもそもなぜこのマケドニアに来たのかと言いますと、トロアスに立ち寄ったときに経験したことがきっかけでした。
トロアスでの夜、パウロはこんな幻を見て、声を聞きます。
「この街から船でマケドニア州に渡り、そこにいるわたしたちを助けてください」。この声の主はマケドニアにいる誰かで、明確には分かりませんが、いずれにしても、この幻を見るように仕向けられたのは神様であると確信し、その声の主を助けるべく、すぐにマケドニアへ渡ることを決意したのでした。
そしてマケドニアのフィリポと言う街に着きました。
しかし数日間滞在したある時のことでした。
毎日の欠かさず祈りの時を守っていまして、おそらく午後3時と思われますが、その祈りの場所まで移動中でした。
占いを生業にし、ある主人の元で働いている女奴隷と出会います。
この占いとは、この地元の神様である大蛇、大きな蛇の姿をした神様の力で占っているものでした。ですので聖書の神様とは全くの異なる宗教です。
その彼女は、占いで得た利益の大半を奴隷として主人に貢いでいたのです。
パウロたちは彼女と出会うと、彼女の方からこう言われました。
「このパウロたちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えています」と。
そして何度も何度もそう語られ近寄って来るのでした。取り憑いてくるように。
これは積極的にパウロたちを認めている発言ではなく、むしろ否定的なものでした。
「ここマケドニアに伝わる古来の神ではなく、聖書の神による救いを宣べ伝えて、わたしたちを困らせている」という意味で、パウロたちにとってはとても迷惑なことでした。
そこでパウロたちは、たまりかね、ついにこう強く宣言したのです。
「イエス・キリストの名によって、この女から出ていけ」と。
彼女に、と言うより彼女の中に潜んでコントロールしていた“霊”に対して、“悪霊”に対して「イエスの名によって出ていけ」と語ったのでした。
すると即座に“霊”は出て行ったのです。
自体はこれで一件落着したかに見えたのですが、今度は、この彼女から利益を得ていた主人たちが立ち上がります。そしてパウロたちを訴えるために捕らえてローマの高官たち、役人たちに引き渡してしまったのです。
そして高官たちに「わたしたちの社会では許されていない聖書の神という、異教の神を宣べ伝えている」と説明し、パウロたちを悪人扱いしたのです。
当時、このフィリポをはじめローマ帝国の植民地になっていた都市では、外国の宗教は認められていませんでした。つまり聖書の神様を伝えることは禁止されていたのです。
その結果、パウロたちは牢に入れられてしまい、それも罪の重い人が入るのでしょうか、一番奥の牢に入れられてしまったのです。
そして牢屋の看守によって彼らは厳重に監視されることとなったのです。
おそらくこのパウロたちと同じような形で、殺人や窃盗などではなく、本当は罪とはいえない形で思想犯的に捕らえられていた人たちが牢にはある程度いたと推測できます。
そして、これが、せっかくマケドニアまでやって来たのにも関わらず、パウロたちが受けた仕打ちでした。
最初に確認しました「マケドニア州に船で渡って来て、わたしたちを助けてください」と助けを求める人は一体どこにいるのでしょうか。
むしろパウロたちの方が助けられなければならない人になってしまった状況なのです。
それでも彼らは焦らず、ただ忍んで『神様が何とかしてくださる』という希望を抱いて待つのでした。
転期は訪れました。
その日の真夜中のことでした。
彼らはこの状況でも、牢の中で賛美歌を歌い、祈ったのです。
おそらく精神的に大きな不安を抱えていたと思います。ゆえに解放を願う賛美歌「We shall over come」、「勝利を望み」のような、かつていわゆる黒人たちが自由と解放を求めて歌った賛美歌ですが、そのような歌を歌いながら、そして、解放を求めて祈ったのでした。
この彼らの態度は同じく捕らえられていた他の囚人たちを励ましたことでしょう。不条理でローマの都合で捕らえられていた人たちにとって、まさに励ましの讃美歌でした。
すると、突然大地震が起きたのです。
かつてイエス様が十字架上で命を終えた時や、復活された時に起こった地震が。
それらと同じように、神様の力が働く象徴として起こされた地震でした。
つまり神様がパウロたちを助けるべく与えた地震でした。
そして建物が激しく揺れ、閉ざされていた牢屋の扉が、全て開いたのです。
これによってパウロたちだけではなく他の囚人たちは簡単に逃げられるようになりました。
彼らの賛美と祈りが叶えられたのでした。
ここで話は別の展開を迎えます。
すると牢屋の看守が、パウロはじめ囚人たちを逃してしまったという責任を重く受け止め、自害(自殺)しようとするのです。
とても責任感のある真面目さが伝わってきますが、そもそも逃したのは神様の業である地震であって看守のせいではないのです。
ゆえにパウロたちは(おそらく他の囚人たちも含め)、看守へこう言いました。
「自害してはならない。わたしたちは逃げずにここにいる」
そして看守は、この出来事にとても感動し『(自分は)救われたい』と思うようになったのです。
どうして『救われたい』と思うようになったか、具体的には記されていませんが、ただ、
①パウロたちが神様の導きを受けて助けられたこと、
②その神様はパウロたち含め罪を犯していないのに捕らえられている人たちの味方となったこと、
さらに、
③お金儲けのために占いをする生き方や、人を働かせる主人の生き方は間違っていることに気づいた、
④ローマの支配的なやり方も間違っていることに気づいた、
これらに気づいたゆえ『今までの生き方を洗い流して変わりたい』と思えた、と言うことでしょうか。
ただ、救われること、変えられることは、全て理屈では説明できないものです。むしろ「この看守に神様の導きが与えられた」と言う一言に尽きるのかも知れません。
そして実は、この看守が『救われる』ために、神様はパウロたちをこのマケドニアに導いた、そして占い師にも出会わせ、さらに牢屋へも導いた、のかも知れません。あえて彼らに苦難を経験させた、と言うことです。
けれどもこの導きは、神様がどんでん返しのように、しっかりと彼らを助け、そして看守という一人の存在を“救い”へと導かれたということでもあります。
わたしたち一人ひとりの経験した苦難も、無駄ではなく、神様の導きかも知れません。それはどんでん返しで“喜び”となるためのものなのです。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、先週も様々なことがありましたが無事に歩ませていただきました。あなたの導きに感謝いたします。わたしたちは隣近所を含む身近な人々のことを祈ります。なんとか自立して日々を歩んでいる人がいます。どうかその人の歩みを強めてください。そして必要な助けをお与えください。
教会員、関係者のことを思って祈ります。
名古屋や日進にお住まいの教会員がいます。中濃教会での礼拝には参加が難しいですが、各自宅などで礼拝を捧げておられます。その信仰をお守りくださり、日々の無事と喜びをお与えください。
一緒にお住まいのお孫さんたち、また別の家族のお孫さんたちの学校生活が楽しいものでありますように、将来の夢につながるものでありますように、導いてください。
イランを含む中東の平和のために祈ります。人の命を軽んじる攻撃が続けられています。どうか軍隊をなくしてください。そして人々の生活に関係するエネルギーが守られますように、導いてください。
最も影響を受ける経済的に貧しい人々の生活をお守りください。
このお祈りをイエス様のお名前によってお捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。 アーメン。

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