2026年6月7日 聖霊降臨節第3聖日礼拝 使徒言行録 4章 13~31節 「聖霊によって大胆に語り、行う」
- 西川 幸作

- 5 日前
- 読了時間: 7分
招きの言葉
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(しんり)をもって
父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネによる福音書4章23節)
説 教 使徒言行録 4章 13〜31節
「聖霊によって大胆に語り、行う」
聖書に登場する人々はどういう姿でしょうか。
若者もおり、活発な者もいるのですが、むしろ年配の者や痛みを負っている者の方が多い気が致します。
今日の聖書箇所に登場する足をいやしていただいた人は、22節によれば、40歳を過ぎていた、とのことです。当時は、20歳ですでに若いとは言えない年齢でした。ですので40歳は、もうお祖父さんと言っても良い歳でした。
しかしその様な人に焦点を当て、物語が展開されていきます。
弟子のペトロとヨハネが関わってゆくこの人は、長く生きてきた人生ですが、あまり良い経験をしてこなかったのではないか、と想像します。
3章1節以降でその人について「生まれながら足の不自由な男」と記されていたり、「神殿の境内に入る人に施しを乞うていた」と記されているからです。
やはり足がしっかりしている人生の方が良く、また施しをこう必要のない人生の方が良い、というのが一般的な考えでしょう。
しかし聖書はこの人を取り上げ、ペトロとヨハネはこの人と関わってゆくのです。それも少しだけの関わりではなく、大胆に関わってゆきました。
この人がいた場所はエルサレムの神殿です。そこには祭司など宗教者が沢山いました。
中にはこの人に、食べ物を提供する祭司がいたかも知れません。
全く無視する祭司もいる中で、少しでも関わろうとする祭司は素晴らしい、と思えるのですが、しかし誰も、大胆に関わろうとはしなかった様です。ですのでこの人は物乞いを続ける現状維持の毎日でした。
しかし、聖霊によって押し出されたペトロとヨハネは違いました。積極的に関わっていったのです。
ただ彼ら自らが関わっていったというより、彼らは聖霊に押し出される様にして、導かれる様にでした。
そもそも、この人とペトロ、ヨハネは初対面ではなかった様です。
この人は毎日のように物乞いをする必要があったため神殿の境内にやってきていました。そして彼らも祈るため、毎日の様に午後3時に境内にやってきていたからです。
ですので彼らはこの人に気づいていたと思えるのですが、どうも気づいていなかった様です。出会っている様で、出会っていなかったのです。
そこに転機が訪れます。彼らに聖霊が降った後でした。
彼らはこの人の存在に初めて気づいたのでした。
聖霊の力によって。
そしてこの聖霊の力によって、本当の出会いをして、この人の足を癒されたのです。
さらにその直後でした。この人が癒されたのに驚いた人々が彼らの前にやってきました。そこでペトロは、この癒された人を隣にして、やってきた人々にこう語りました。
「あなた方も知っているイエスという人は、あなた方によって十字架上で殺されました。しかし神はこのイエスを死者の中から復活させてくださいました。このイエスを信じる信仰が、この人を完全に癒したのです」
ペトロが話し終えた時でした。近くにいた神殿の祭司たちがやって来ました。そしてペトロの「イエスが復活された」との話に、怒りを露わにしたのです。
イエス様を消すことをまさに目標にしていた祭司たち、でしたので、そのイエス様が復活されたと聞いて、憤ったのでした。
そして、そう語ったペトロとヨハネを牢に捕らえてしまったのでした。
しかし話は続きます。
牢の中ですが、むしろその様な状況だからこそ、聖霊の力が働いたのです。
そしてペトロは、恐れず祭司たちに直接、大胆にイエス様の復活を語ったのです。
そもそも、このペトロとヨハネは「無学な普通の人」と今日の箇所の13節で言われています。
しかし「無学な人」ゆえに聖霊の力が素直に体に入っていったのです。無学でなければ、有学(ゆうがく)であれば、おそらく聖霊の入る余地はなかったでしょう。
そして入ってきた聖霊の力が良い意味で暴発する様な形で表れたのです。
ですので、もはやこのペトロとヨハネの2人を止めることは不可能でした。
そこで祭司たちは2人を取り押さえるのは無理と感じ、代わりに2人に「あのイエスのことをこれ以上語るな」と口止めを命じて来ました。
しかし2人はこう反論します。
「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
話さないではいられない、もはや自分たちはコントロールできない、聖霊によって自分の口が開かれて話し出す、というのです。
振り返ってみましたならば、2人は捕えられているわけですから、イエス様が捕えられて命を奪われた様に、2人にとっても命の危険を感じる様な、緊迫した場面だったはずです。
しかし2人はその危険を感じるよりも、聖霊による励まし、力強さ、それらを豊かに感じていたのでした。
想像してみますと、もしもわたし自身がこの2人の状況になったとしたら、、、権力者との、どうにもならない不幸ないざこざに巻き込まれたとしたら、わたしはどうするか。
怖気付いて、「釈放してください」と祭司たちに頭を下げて願うかも知れません。その様に自分を守るために臆病になる、そんな誘惑にかられる、かも知れません。
もしくは、捕らわれているので『神様、わたしたちを助けてください』と、ただ祈るばかりかも知れません。
話を使徒言行録に戻しまして、2人はどうしたのでしょうか。
2人は、こう祈りました。
「神、この様な状況ですが、それでもわたしたちに福音を語らせてください。折りが良くても悪くても、語らせてください。福音を。湧き出てくる聖書の言葉を!」という祈りでした。
ペトロとヨハネの2人は、大胆にイエス様のことを語る、つまり福音を語れる様に祈ったのでした。
そもそも、調子の良い時はそれこそ、語ることができるのです。気持ち良く。聖霊の波に乗って語ることができるのです。
しかし重要なのは、調子の悪い時です。困難な時です。折りが悪い時に、どうするか、です。聖霊の波を感じられるか、です。
今までどれだけ、折りが悪いと思って、それを理由に諦めて来たか。
今の時代が良くないからだ、と言い訳をして来たか。振り返ります。
今は、こういう状況だから、辞めます。
わたしには無理だから。
確かに諦めることも時に必要です。
しかし、「このことはわたしにとって、わたしたちにとって生きることの最大の関心ごと。このことはもはやわたし自身と切っても切れないもの」こう思えるような事柄の場合、諦めて良いでしょうか。
例えば、人は生きてゆくために食べる。食べるために料理します。
そうしますと折りが良くても悪くても、料理は続ける必要があります。
料理を諦めたら、生きていけないのです。
そこで、どう祈るか。
「神様、出来上がった食べ物を与えてください」と祈っても良いのですが、むしろ「どうか料理ができる力をお与えください」と祈るということです。
ペトロとヨハネの2人は、こう祈りました。
「大胆に御言葉を語ることができる様に聖霊の力をお与えください」
「わたしたちが何もしなくてもあなたが代わりにみ言葉を語ってください」ではなく「わたしたちが大胆に語れるように、力をお与えください」でした。
すると、神様はこの祈りを聞き、叶えてくださったのです。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、あなたの導きをいただいて、先週の日々も豊かに歩むことができました。あなたに感謝いたします。
わたしたちは身近な人々を思って祈ります。友人が病気療養中です。痛みと辛い思いを抱いて歩んでいます。
どうかその痛みと辛さを和らげてください。そして笑顔をお与えください。
教会員、関係者を思って祈ります。
クリスマスコンサートを今年も12月に行うこととしました。関わってくださる兼松努さんは中濃教会の関係者であり、クリスチャンです。音楽を通して福音を述べ伝えておられます。この坂祝で、この中濃の地で。どうか聖霊の力をお与えくださり、これからも福音を述べ伝えることができる様に、導いてください。
兼松弘子さんはお連れ合い様です。努さんと共に歌という音楽を通して働いておられます。どうか聖霊によって力付けてください。
農家の人々のことを思って祈ります。
田植えの時期であり、夏野菜を育てる時期でもあります。休みなく働いておられるゆえ、先ず、体調をお守りください。そして豊かな実りをもたらしてください。恵の雨と太陽の光をお与えください。
そして収穫物をいただくわたしたちはあなた神様と農家の人々を尊敬し、感謝の思いを抱きます。あなたに感謝をいたします。
このお祈りをイエス様のお名前によってお捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。 アーメン。

コメント