4月27日聖日礼拝説教 マタイによる福音書 28章 11~15節 「復活という真実」
- 西川 幸作
- 5月3日
- 読了時間: 8分
今日の箇所はイエス様が復活した後の内容ですが、少し遡って、イエス様が裁判、死刑の判決を受けてしまう場面から見てゆきたいと思います。
イエス様に死刑判決を下したのはローマ総督のピラトです。ただその前に、ユダヤ教の祭司長たちも同じく死刑判決を最高法院という裁判所で下していました。
しかし、その祭司長たちは、かつてイエス様が「自分は(死んでから)3日後に復活する」と語っていたことを思い出します。
そこで彼らは、恐ろしくも、このようなことを考えたのです。
『あのイエスは復活すると語っていたようだが、本当にそうなのか? もしかしたら、復活したように見せかけるために、実はイエスの弟子たちがお墓にやって来て、イエスの遺体を盗み出して、空の墓にするつもりではないか』
祭司長たちは『イエス様が弟子たちと共謀して、復活を自作自演して、嘘の物語にしようとしていないか』と疑ったのです。
さらに祭司長たちはこうも考えたのです。
『イエスの弟子たちは、遺体を盗み出した後に、あたかもイエスが復活したかのように、多くの人々に「イエス様は復活された」と嘘を告げて回るのではないか』
このように考えた祭司長たちは、この考えから弟子たちを阻止しようとします。
もし弟子たちがイエス様の遺体を盗みに来たならば、彼らを阻止するため、お墓の前に見張りを置くようにしたのです。
さらに、祭司長たちはピラトのところへ行って、ローマの兵士を見張としておいてもらうように頼んだのです。
ゆえに、お墓には重い墓石を置いて、なおかつ番兵を配置したという頑丈な守りを敷いたのでした。
これらは全て祭司長たちによるイエス様と弟子たちへの根拠のない疑いからでした。
それゆえでしょうか、このような祭司長たちの計画、企みは崩れ去ることになります。
イエス様が復活したときです。突然、大きな地震が起きて、さらに天使が現れて、石を横に転がし、番兵たちはその天使を見て恐れて、死んだかのように意識を失ったのでした。番兵の意味がなくなったのです。そしてその後のことを番兵たちは全く覚えていなかったのでした。
つまり番兵たちは、イエス様が復活された姿と、そのイエス様がガリラヤに向かわれた姿も、全く見ることができなかった。
ここからが今日の箇所です。
我に帰った番兵たちは元いたエルサレムの都のローマ軍基地に帰ります。
そこで彼らはそもそもの計画者であった祭司長たちのところに行って、自分たちが天使を見て、意識を失ってしまった内にイエス様が復活されてお墓を出て行ったことを、報告しました。
この報告を受けた祭司長たちは、自分たちの計画が失敗したと認識します。そしてさらに、祭司長たちはこの失敗を取り返すように、新たな計画を立てたのです。
それは、番兵たちに多額のお金をあげるから、その代わり「イエスの弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」との嘘を言いふらしなさい、という計画でした。
こうして事実でないことを言いふらすように仕向けたのです。
最初にみました、イエス様の弟子たちが自作自演で遺体を盗み出そうとしている、と疑ったことも含めて考えますと、やはり祭司長たちは最初からどんな手を使ってでも、どんな嘘をついてでも、イエス様と弟子たちを貶めるように考えていた、ということです。
しかし、よく考えてみますと、この祭司長たちの計画、番兵たちに多額のお金をあげて嘘を言いふらさせる計画、には無理がありました。
というのも、番兵たちは寝てしまっていたのに、どうやって弟子たちが盗んだことに気づけるのか、ということです。
寝ずにお墓の番をしていれば、弟子たちが盗みに来たことに気づけますが、寝てしまっていたのに、どうして弟子たちが盗みに来たことに気づけるのか、「弟子たちが盗んだ」と番兵たちが人々に言いふらすことができるのか、ということです。
ですから、そもそもこの祭司長たちの計画自体、おかしかったのです。
おかしい計画であることを知りながら、番兵たちに「そうせよ」と命じているのです。ここから、祭司長たちは『どんな手を使ってでも、イエスと弟子たちを貶めたい』という思いを抱いていることが伝わってきます。
ところが、番兵たちは、祭司長たちから貰えるお金に眼が眩(くら)んでしまったのでしょうか、貰ってしまい、おかしな計画と知りつつも、それを実行したのです。「私たちが寝ている間に弟子たちが遺体を盗んだ」と言いふらしたのです。
ですので、このデマがユダヤ人の間でひろがってしまった、と聖書は語ります。
ただこの番兵だけを責めることはできません。このお金に眼が眩むという出来事は、かつてイエスの弟子であったイスカリオテのユダも経験しました。彼は祭司長たちから銀貨30枚を受け取り、その代償として、イエス様の居場所を祭司長たちに密告して、イエス様を逮捕する手助けをしたのです。後日、その通り、イエス様は逮捕されてしまいました。
このユダにお金を渡したのも、祭司長たちでした。
ということは、彼らは、何かを企むときは、お金を使って、人の心を釣って、計画し行動していたということです。
このような企みが、もしも、罷り通ったら、正しいこととされたら、どうでしょうか。真っ当な世の中と言えるでしょうか。
一方では、残念ながら、イエス様は、ユダと番兵たちから2回もお金によって苦しめられることになったのです。
今日の箇所の内容は、まさにこの企みがあった、ということ、イエス様はその犠牲者であったということです。
しかし、、、それで、イエス様の復活の出来事が、全くなかったことになったのでしょうか。
この祭司長たちのお金によるデマが罷り通ったでしょうか。
幸いかな、、、このデマよりも、イエス様の復活という真実の方が優ったのでした。
確かに聖書には、弟子たちがイエス様の死体を盗んだというデマがユダヤ人の間に広まった、とあります。
しかし、その広まりよりも、イエス様が復活されたという真実の方が多くの人々に受け入れられていったのです。その証拠に弟子たちが活躍した時代、使徒言行録に書かれている通り、イエス様を信じる人々がたくさん現れたのでした。
やはり真実に勝るものはないのです。
この世界には、残念ながら白が黒にされる、真実が真実でなくなることがあります。
埼玉県狭山市で1963年5月に起こった出来事はその1つと言えるでしょうか。石川一雄さん、石川青年は被差別部落出身者ということで、その差別から、女子高校生の殺害の容疑者とされてしまいました。
真実は“石川さんは殺害していない”です。しかしその白が黒にされてしまったのです。当時の警察は本当の犯人を捕まえることができず、慌てて、1日でも早く捕まえなければならないと追い込まれた末に、石川さんに目をつけて犯人にしてしまったのです。ここでの警察はお金に眩んだというよりも、犯人を捕まえられないという汚名を避けるために、名誉のためにそうしたのです。
名誉のために、誰かを貶める。名誉のために、自分の何かを守るために、お金のために誰かを犠牲にする。
一方の犠牲になった人は、どうすれば良いのでしょうか。犠牲にした方の人は、後悔の念に苦しむかも知れません。しかし犠牲の側の人は、もっともっと大きな痛手を負います。人生が変えられてしまうのですから。
しかし“石川さんは無罪、無実である”という真実は、必ず、必ず、デマよりも、そんな名誉のために放たれたデマよりも、必ず、もっともっと広まり、世界に広まり、真実が勝るに違いないのです。
袴田巌さんの真実が、今、デマよりも、広まったように。
イエス様は復活されました。その真実は、今世界に広まっています。
たとえ「復活なんて偽りだ」と言う人が現れても、その時、石が真実を叫ぶでしょう。「イエス様は復活された」と。自然が真実を叫ぶでしょう。
それが、真実が行き渡るのが人の生きる世界、人が生かされる世界のあるべき姿だからです。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、あなたの導きをいただき、先週も歩ませていただきました。寒暖の差によって体調を崩してしまうこともありましたが、それでも豊かに歩ませていただきました。あなたに感謝いたします。
そんなわたしたちは、家族のために祈ります。どうか病を負う家族を癒してください。体と心の傷を癒してください。そして再び元気な姿で歩めますように、導いてください。
教会員、関係者のために祈ります。
介護をされる人がいます。ご自身の体調も管理しながらの介護です。どうかその疲れを癒してください。介護を受ける人がいます。思うように体が動かないことに悩んでおられます。どうか生きるために必要なエネルギー、聖霊の力をお与えください。
今は介護を必要としない人、することのない人々も、自身の将来を想像し、今、介護をしている人、受けている人の大変さを思い、その人々のことを祈る者とさせて下さい。
イエス様の復活の奇跡を知りつつ、わたしたちは、この礼拝を捧げています。どうかわたしたちに復活の光をお与え下さい。その光を必要としている人にお与え下さい。
そして礼拝後には教会総会を行います。この教会が地の塩のように、地域の人々にとって意味のある教会となりますように、また、世の光のように、人々の日々の歩みを照らす存在となりますように、切に願います。
この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
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