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7月20日聖霊降臨節第7聖日礼拝説教 テモテへの手紙 一 2章 1~7節 「祈ることで平穏となる」

「祈りを絶やさずに」としばしば言われます。なぜかと言いますと、祈りは、命に関わることだからです。

 例えば、昔、雪国で、囲炉裏(いろり)の火を消してしまうと、凍え死んでしまう、命に関わることになるのと同じようにです。

 もちろん、祈らなくても呼吸をしてこの体は生きてはいけますが、『どのように生きるか』という生きる目的を失ってしまったまま、生きるようなことになると思えるのです。


 そもそも祈りは神様に向けてなされるものです。

 この神様への祈りは、神様とのコミュニケーションであって、神様との阿吽の呼吸と言えるものです。


 では、祈りと言っても何を祈るのでしょうか。それについて、1つの答えを今日の箇所は語っています。


 2章1節にこうあります。

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい」とあります。

 「執り成し」とありますが、この「執り成しの祈り」とは自分ではなく他者が幸せとなるために、他者が祝福されるために、他者が健康であり続けるために、祈り願うということです。


 そしてそのような祈りを「すべての人々のためにささげなさい」とあります。

 「すべての人々」ですので、好きな人だけではなく嫌いな人のためにも祈りを捧げなさい、と言うことです。

 さらに続きの2節にはこの「すべての人々」の中に、このような人も含まれる、と言うことが記されています。


 「王たちやすべての高官のためにも(祈りを)ささげなさい」


 「王たち」と言うのはこの新約聖書の時代の王ですから「ローマ皇帝」を含む王たちのことです。そして高官とはローマから派遣されてきてユダヤ地域を治めていた「ローマ総督」など軍隊のリーダーになります。


 支配者であり、迫害者であった「皇帝」や「総督」です。この手紙が書かれた時代は紀元後100年以降とされています。その時代では「皇帝」によるキリスト教会への迫害がありました。

 しかしその「皇帝」のためにも祈りをささげなさい、と言うことです。


 ここでこの手紙の著者は誰か、について見てゆきたいのですけれども、このテモテへの手紙を書いたのはイエス様の弟子であった「パウロ」の関係者だと言われています。「パウロ」の名前を用いて、「パウロ」の思想を受け継いで、その関係者は書きました。そして著者は「支配者のために祈る」ことを勧めたのです。


 ということはこの著者の関係者であった「パウロ」自身も、そのように祈りなさい、と勧めている可能性があります。そこで「パウロ」が直接書き残したローマの信徒への手紙を読みますと、12章12節以下にこのような文章がありました。


 「たゆまず祈りなさい。あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」


 「パウロ」自身、そう願っていたのです。

 また支配者のために祈るのは、実は旧約聖書の時代から行われてきました。エズラ記という書物の6章10節にはこのような文章があります。


 「王と王子らの幸福な人生を願って、祈ってくれるようにせよ」、「支配者の幸福な人生を願って、祈ってください」とエズラという祭司が語っています。


 それから新約聖書の「ペトロの手紙」にもこのような文章があります。

 「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」

 これはイエス様の弟子であった「ペトロ」が書いた手紙と言われています。「ペトロ」も「支配者のために祈り、敬いなさい」と語るのです。


 さらに、マタイによる福音書にイエス・キリスト、イエス様の以下の教えが記されています。5章44節です。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」


 つまり、イエス様も、今日の手紙の著者も、それからパウロもペトロも、旧約聖書のエズラも、語るのは、支配者を突き放すのではなく「すべての人の祝福を祈る」ということでした。


 なぜこのような祈りが推奨されるのでしょうか。


 今日の箇所、テモテへの手紙に戻りまして、2節後半から4節にかけて、その理由について、なぜ支配者のために祈るのか、その理由が述べています。


 「(祈る)わたしたちが常に信心(信仰)と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」


 後半に「わたしたちが、平穏で落ち着いた生活を送るため」とあり、そのために敵である支配者の祝福を祈る、というのです。


 この背景には、もしも人が敵への“憎しみ”の心を抱いているならば、その人は平穏な生活を送ることはできない。むしろ“憎しみ”から“争い”が生み出されてしまうのではないか。という問いがあると考えます。


 “憎しみ”は残念ながら、積極的ではない、建設的ではない、のです。

 むしろ、「その敵を思って祈ることから始めましょう」、ということです。


 もちろん迫害者は許されるべき存在ではありません。虐めをする人は、許されるべき存在ではないのです。

 しかし、それゆえに、その者のために祈る、ということです。


 アッシジの聖フランシスコが祈られた平和の祈りにこのようなくだりがあります。

 「神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

  憎しみのあるところに愛を、
  いさかいのあるところにゆるしを、
  分裂のあるところに一致を、
  誤っているところに真理を、

  もたらすものとしてください」


 「憎しみを愛に、いさかいをゆるしに、分裂を一致に、誤りを真理に変えてください」と祈る。


 一時的な一致や平和ではなく、永遠に続く一致や平和、それらを待ち望むために、先ずは祈りなさい。


 なぜなら、実は、、、皇帝のその心には本当の平和を求める心、良心、正しい心があるはずだからです。

 ゆえに、「神様、主よ、どうか迫害者から本当の平和を実現する者へと変えてください」と祈りましょう、ということなのです。

 

 そう祈ることで、最終的には、すべての人が平穏で落ち着いた生活を送ることができる、のです。


 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」と4節にあります。


 「皇帝も総督も含むわたし自身も含む、すべての人々が救われること、真理を知るようになることを神は望んでおられる」のです。


 祈ることで、すべての人が平穏となれるのです。


 お祈りいたします。



牧者の祈り


 天の神様、あなたの導きをいただき、先週も歩ませていただきました。あなたに感謝いたします。わたしたちは身近にいます隣人のことを思って祈ります。家族の体調をお守りください。災いから遠ざけてください。ご近所の高齢者でご病気を抱えておられる人々のことを思います。どうか回復をお与えください。以前のように元気に過ごせるように導いてください。

 教会員関係者のために祈ります。

 Mさんは新潟のご実家に帰られました。お母様と一緒に地域の人々の憩いの場を運営されています。ご高齢のお母様の体調をお守りください。Mさんのお働きを祝福してください。

 7月は岐阜地区を覚える月間です。先週は蘇原教会の川上野ゆり牧師をお招きいたしました。野ゆり牧師と蘇原教会の皆様の日々の生活を豊かなものとしてください。過疎化の中でも歩んでおられます。どうか地域の光として教会があり続けますように、願います。

 今週は、田瀬教会と付知教会を思って祈ります。田瀬教会は大雨の被害が重なっています。これ以上、被害がありませんように願います。また土地が本来の教会の土地、境内地となりますように願います。

 付知教会では、少ない信徒の皆様と礼拝がささげられています。それでも豊かな礼拝、教会であり続けますように、願います。田瀬教会、付知教会の清水与志雄牧師と皆様を祝福してください。


 この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。

 アーメン。


一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)


 神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。 アーメン。

 
 
 

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