5月11日聖日礼拝説教 ヨハネによる福音書 11章 17~27節 「信仰告白」
- 西川 幸作
- 5月13日
- 読了時間: 8分
マルタとマリアという2人の女性がいました。その2人の兄弟にラザロという人がいました。このラザロは命を脅かすほどの大きな病気を患っていました。
そこで2人の姉妹は、イエス様にラザロを癒してくださる様に依頼します。
しかしイエス様は、すぐにラザロの所へ駆けつけませんでした。2日が経ち、ラザロは命を終えてしまいます。
愛するラザロのことで姉妹は悲しみました。
そしてマルタはイエス様にこう言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、(もっと早く来てくださいましたら、)わたしの兄弟(ラザロ)は死ななかったでしょうに」
愛する者を失ったマルタの本心です。
『なぜ、あなたはラザロが死ぬ前に来てくださらなかったのでしょうか』
先ほども言いましたが、依頼を受けてから2日ありましたが、イエス様は駆け付けませんでした。それゆえの彼女の本心です。ちなみにマリアも32節を読みますと、同様の本心を抱いていることが分かります。
マルタは、、、『イエス様は、当然、来てくれて癒してくださる』と信じていました。これはイエス様をしっかり信頼しての、信仰しての思いでした。
けれども、、、その信仰が、信頼が、裏切られたのでした。『イエス様は来てくださらなかった』
マルタの思い通りには行かなかったのでした。
ただここで、一方のイエス様の視点からも、この場面を見てみたいと思います。
知り合いのラザロのために、なぜ直ぐに向かわなかったのでしょうか。
今日の箇所の手前の14節でイエス様はラザロについてこの様に語っています。
「ラザロは死んだのだ。わたしが、ラザロの死の直前に居合わせなかったのは、実は、あなた方、弟子たちにとってよかったのだ。あなたがたが、ラザロが起こされる、復活されることを信じる様になるためである」
イエス様は意図的に直ぐに向かわなかったというのです。その理由は、ラザロは死んでしまうけれども、イエス様によって復活させられて歩むラザロの姿を弟子たちが目の当たりにして、復活を信じるため、というのです。
実はこの「弟子たち」のことも視野に入れてのイエス様の行為だったのです。
ここでは「弟子たち」となっていますが、良く読みますと、これは幅広く、多くの人々、時代を超えたわたしたちも含めて、福音書は語っていると気付かされます。
イエス様は弟子たちをはじめわたしたちを含む人々が、復活の出来事を信じるために、あえて直ぐに行かなかった、ということです。
つまりイエス様は、ラザロと2人の姉妹という3人だけに焦点を当てているのではなく、3人に寄り添うだけではなく、その背後にいるイエス様の弟子たちを含むわたしたちにも焦点を当てているのです。
すぐに駆けつけて、ラザロが死なない内に病を癒やされ元気にされた、という内容であれば、もちろんこの3人に寄り添われたイエス様という尊い内容となります。それだけではなく、親しい人の命を失った人々や自分自身も死んだらどうなるのかと問う人々をも視野に入れてのことだったのです。
その様な意図があったのでした。決してラザロの命や、また姉妹のマルタとマリアを疎かにしたのではないのですね。もちろん、この3人の願いを実現しながら、多くの人々のためにもなる行いでした。
そしてこれは同時に、今日の箇所でイエス様によってラザロが起こされる、復活させられることによって、まもなくイエス様ご自身も、同じ様に死んだ後に復活するということにつながっていく話なのです。
『ラザロが復活したように、わたしも復活するのだ』と、そして『ラザロの復活、わたしイエスの復活、さらに、あなた方弟子たちはじめわたしイエスを信じるすべての人々の復活』というつながり、メッセージなのです。
イエス様後自身が、25節でこの様に言っているからです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。わたしを信じる者はだれも死ぬことはなく、生き続ける。死んで終わりではない」と語っている通り、イエス様を信じるすべての人々も復活するというのです。
このイエス様の訴え、メッセージに触れたマルタでした。
最初は不満がありましたが、しかし、イエス様の存在とこのメッセージを理解していったのです。
そもそもマルタはどういう人だったでしょうか。
後の12章で、イエス様の足に姉妹のマリアが香油を注ぐ場面がありますが、そのときマルタは、別の仕事、夕食の支度、給仕をしていました。この様にマルタは表に立たず、主人公というより周辺の仕事をするのがどうも好きだった様です。
野球で言えば、1番バッターや4番バッターではなくて、7番、8番バッターです。もしくはベンチにいる控え選手の様です。
そんなマルタですが、しかし今日の箇所では、マリヤよりもイエス様とやり取りをしていて、まさに主人公として描かれているのです。
普段、給仕役でも、脇役であっても、イエス様はその人に向かって「わたしは復活である、命である」と真剣に語りかけておられるのです。
そもそもイエス様が生きて歩んだ時代、ほとんどの女性は男性に比べて脇役でした。主人公は男性です。祭司と呼ばれる人々、ファリサイ派と呼ばれる宗教の代表者たちはすべて男性、当時の王様も男性でした。
よって女性の存在意義は薄かった、いや薄くされていたのです。
その様な社会の中で、マリアはそれでも前に出ようとしましたが、マルタは『脇役がわたしの役目』と思わされて日々を歩んでいたと推測します。
ですのでマルタをはじめ女性が著名人やリーダー的存在の様な人と出会う機会というのはなかったのです。目の前のイエス様の様な人に、今まで出会ったことがなかったのでしょう。
その様なマルタに光が与えられた内容なのです。日の光が当たらなかった、スポットライトに照らされることがなかったマルタに、光が当ったのです。
イエス様の母マリアも実は同様の経験をしています。イエス様の誕生の前、天使が現れます。受胎告知の場面で、彼女は自身でこう語りました(歌いました)。
「わたしの霊は救い主である神をたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」
「はしため」という言い方は、まさに脇役ということです。しかしその母マリアが主人公になる物語です。
現代のキリスト教会でも割合としては、女性の方が男性よりも数が多いということもありますが、さまざまなご奉仕を担ってくださっています。
そのご奉仕によって教会は支えられています。中には毎日の様にご奉仕くださる人もいます。
そのご奉仕、日の目を見る様なご奉仕でなくても。
その様な女性に、イエス様は光を与えられるのです。
「わたしは世の光である。わたしは復活であり、命である」と。
その様なマルタにイエス様は光を与えられました。
マルタは、このイエス様の行為を受けたのです。
自分を大切にしてくださるイエス様の愛に触れたのです。
そうしますと、自然と、この様な言葉が出てきました。
「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております。(わたしは主をたたえます)
あなたがラザロを復活させてくださることを信じます。そしてあなたご自身も復活されることを、さらにはあなたを信じるわたしもすべての人も復活することを、信じております。」
マルタの心からのイエス様を信じる、信仰告白でした。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、あなたの導きをいただき、先週の1週間も歩ませていただきました。あなたに感謝申し上げます。その様なわたしたちは身近にいる家族、友人のために祈ります。どうか困難な中にある者に、あなたの救いを、イエス様の救いをお与えください。
教会員関係者を思って、祈ります。
K牧師のお連れ合い様がお越しくださいました。また信仰のご友人も共にお越しくださいました。
ここに集うわたしたち、また各務原教会、蘇原教会の人々、かつての美濃太田伝道所の人々が愛するK牧師は、2月28日に91年の歩みを終えられました。今は、ラザロのようにイエス様のように「復活の命」をいただいて、あなたのもとで更なる歩みを続けておられます。そのK牧師がお連れ合い様やお母様はじめご家族と日々を過ごしたこの場所で、それぞれの教会は今も後を継いで宣教活動をさせていただいています。
しかし、課題もあります。
それゆえ、どうか天国より神様イエス様と共にお守り、お支えください。
わたしたちの隣の石川県にある能登半島では、昨年大きな地震が発生しました。被災をされた輪島教会、羽咋教会、羽咋白百合幼稚園、富来伝道所、七尾教会、七尾幼稚園、そして魚津教会、皆様の日々の歩みが平安であります様に、祈ります。これから建物の再建へと向かわれます。良き計画をお示しくださり、あなたのお守りの内に成し遂げることができます様に願います。
インド、パキスタンの間で紛争が起こりました。またウクライナ、ロシア、パレスチナ、イスラエルの間での戦争が止みません。小さな子どもの命が守られます様に、大人同士が命の尊さに改めて気づきますように、導いてください。
この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
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