5月18日聖日礼拝説教 ヨハネによる福音書 14章 1~11節 「神様とイエス様は一緒」
- 西川 幸作
- 5月21日
- 読了時間: 7分
今日の箇所の手前ではイエス様の弟子の一人ペトロがイエス様を裏切ってしまうことが、そのイエス様によって預言されています。鶏が鳴く前にペトロは3度、イエス様のことを知らない、と言うだろう、という内容です。
そして案の定、18章にある通り、イエス様が逮捕された時、ペトロはそのイエス様を裏切ってしまいます。3度もイエス様のことを「知らない」と言ったのです。そして鶏が実際に鳴いたのです。
これがペトロですが、一方、他の弟子たちはどうでしたでしょうか。イエス様が最も苦しまれた十字架の場面で、12人の弟子たちは誰一人、そばにおりませんでした。ペトロと同様にイエス様を裏切ってしまったのです。
この様な裏切り行為をしてしまったペトロとその他の弟子たちです。彼らはその後、どうなってしまうのでしょうか。その報いを受け、罰として不幸な人生を辿ることになったのでしょうか。
ここで今日の箇所を見てゆきたいと思います。
イエス様がペトロの裏切りを預言した後です。そのペトロたちにこの様に語りました。今日の箇所の最初1節からです。
「(ペトロたちよ)心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる」
「イエス様はここで、わたしを裏切るあなたがたは、罰を受ける」という様な否定的な内容ではなくて、全く彼らについて肯定的に語っています。
「あなたがたは、わたしを裏切ってしまうけれども、それで人生が終わったと思って、心を騒がせてはならない。安心しなさい。神を信じなさい。なぜならその様なあなたがたでも、神は将来の住む所を備えていてくださる。わたしイエスもまもなくしたら神の家に住むことになる。わたしは、あなたがたの住む所を整えて、あなたがたを迎え入れる」
イエス様はここで、「彼らには将来の住む所が用意されている。もし用意されなけていなければ、わたし自身がそこに行って用意してくるつもりだ」とまで語りました。
このイエス様の姿勢は、なんでしょうか。なぜ裏切る彼らにこう言われたのでしょうか。
これは、イエス様による彼らへの赦しの言葉です。またイエス様同様に神様も赦される、イエス様を裏切るという過ちを赦される、ということです。
この様な赦しの言葉をイエス様は最初に語っているのです。
しかし、なぜイエス様は、神様は裏切られる彼らを一方的に赦すことができるのでしょうか。
「使徒信条」という信仰を告白する文章にはこの様なくだりがあります。いつも文語ですが現代語で少し分かりやすくしてお伝えします。
「主イエス・キリストは、聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下られる。しかし、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、父である神の右の座に着き、神の家に住み、そこから生者(せいじゃ)と死者を裁くために来られます。わたしたちは聖霊を信じ、罪のゆるし(赦し)、からだの復活、永遠のいのちを信じます」。
ここでは「わたしたちは「罪(過ち)の赦し」を信じます」とあります。そして、この「赦し」は前半部分にある“イエス様の十字架の死”によって、もたらされる、ということです。
この使徒信条は聖餐式という儀式の中で朗読されます。この式の中で司式をする牧師はこの様に語ります。
「主イエスは、わたしたちの罪のために、過ちのために十字架にかかり、贖い、わたしたちの身代わりとなってくださいました。その赦しを記念して、このイエスの体を感謝を持って受け、味わいましょう」
今日の箇所で考えますと、イエス様がペトロたちの過ちのために犠牲になって十字架の死を経験してくださり、彼らの過ちを赦された、ということになります。
イエス様は彼らを我が子の様に思って、子どもがしてしまった過ちを親が保護者が代わりに謝る様に、赦されたのです。
そしてこの赦されるイエス様は、実際にこの赦しを体現するかのように、この話の前に行ったことがあります。13章です。イエス様が弟子たちの汚れた足を洗われた出来事です。
イエス様は弟子たちとの食事の席で、十字架で死なれるけれども復活されると語ります。そして立ち上がられ、弟子たち一人一人の「汚れ」た足を水で洗われ、手拭いで拭き取られ、きれいにされたのです。
この「汚れ」は「過ち」と言い換えられます。イエス様は彼らが背負っていた「過ち」を洗ってきれいにされた、赦されたのでした。
「たとえわたしイエスを裏切るというわたしに向けられた過ちであっても、わたしは十字架の出来事によってきれいにする、赦す」ということです。
ここまでされるイエス様です。
なぜそこまでして、死んでまでして、犠牲になるまでして、イエス様は赦されるのでしょうか。
この様な問いを弟子たちも抱いたと思うのです。
そんな彼らにイエス様はこう語りました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。」
「わたしイエスは嘘偽りではない真理であり、神の家に通ずる本当の道である。その道は死んで終わる道ではなく、復活の命につながる道なのだ。この道であるわたしイエスを通って、あなたがたは神の家に行くことができるのだ」。
イエス様を自分の通る道として、その上を歩むならば、神の家にたどり着くことができ、復活の命に生きることができる、ということです。
「どういう状況の人でも、わたしイエスは受け入れる。なぜならばわたしはその人が歩む道なのだから。もし道であるわたしがその人を拒んでしまったら、その人が歩む道は無くなってしまう。人生終わってしまう。そうではなくわたしはその様な人の道でもあるのだ。むしろその様な人生に迷っている人にとっての道なのだ」ということです。
さらに、この道は「神の家へと、神へとつながる道」です。
ということは、イエス様は神様と繋がっている切ってもきれない存在ということです。
妊娠している母親と赤ちゃんが「臍帯」、「へその緒」、という道で繋がっているように、イエス様と神様も一体、一緒なのです。
イエス様の赦しは、言い換えれば神様の赦しです。その赦しに隔たりはないのです。
時代を超えて、わたしたちにもイエス様は、語りかけてくださいます。
「わたしは復活へとつながる道である。どういう人にとっても道である」
もちろん「過ち」を犯さないことが一番です。しかし弱さを抱えるわたしたちは過ちを抱えてしまいます。しかし心を騒がせることはないのです。イエス様の道を通ることが許されて(赦されて)いるのです。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、あなたの導きをいただき、先週も1日1日、7日間を歩ませていただき、こうして礼拝を守ることができました。あなたに感謝申し上げます。
そんなわたしたちは、隣人(となりびと)のために祈ります。悩みを抱えている人のことを思って、これからの将来に不安を抱えている人を思って祈ります。どうか、その人にあなたの道を示してください。
教会員、関係者のために祈ります。
奏楽者のIさんは横浜の介護施設におられるお母様の所に行っておられます。安心して介護を受けられるように手続きをされています。また困難な人のために、横浜のお母様のご自宅を提供されています。どうか、お母様に、その困難を抱える人に、そしてIさんご自身に光をお与えくださり、道を歩ませてください。
Mさんは新潟の実家にて一人暮らしのお母様と共に過ごしておられ、地域の人々の相談に乗っておられます。どうかお母様とMさんの体調をお守りください。
薬物、アルコール、ギャンブル依存症を抱えている人々がいます。
どうか回復へと向かうことができますように、必要な支援を受けることができますように、導いてください。そのために働くダルクというグループが全国にあります。岐阜にもあります。そのグループの活動をも、お支えください。
この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
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