5月4日聖日礼拝説教 マタイによる福音書 12章 38~42節 「わたしたちの復活」
- 西川 幸作
- 5月13日
- 読了時間: 7分
今日の箇所12章38節以下をお伝えするに当たって、先ずはこの手前の箇所、12章の22節以下についてお伝えいたします。この22節以降は、先ず、悪霊に取り憑かれてしまって病気になってしまった人が登場します。
その人はイエス様の奇跡によって、いやされ元気になって歩み始めた、という内容から始まります。
ただ、この奇跡を知ったファリサイ派の人々はイエス様のことを「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この病気の人の悪霊を追い出せはしない。あのイエスは悪霊の頭ではないか」と言って非難したのです。
そもそもイエス様は悪霊でもなんでもありません。ゆえにそのように非難した彼らこそ心が悪霊に支配されていたのかも知れません。
ゆえにイエス様は彼らのことを「蝮の子らよ」と34節で表現しています。
そして、その後が今日の箇所になります。
今触れましたファリサイ派の人々が再び登場して、今度は仲間の律法学者たちと共にイエス様にこう言いました。
「先生、(イエス様)しるしを(わたしたちに)見せてください」
イエス様のことを非難してきた彼らが、ここでイエス様のことを「先生」と表現しています。どう言うことでしょうか。これは尊敬の思いからではなく、単に形式的な心ここに在らずの「先生」であることが分かります。
そんな彼らは「しるしを(わたしたちに)見せてください」と願っています。
そもそも、イエス様のことを「悪霊の頭」と非難していたのですから、この願いも不純な心、イエス様を貶めるための願いではないか、と言うことです。
『われわれのこの願いに対してイエスがどう返答するか、その返答によっては貶めることができる、イエスの命を奪う方向へ話を進めることができる』、この様な企みが見え隠れしています。
この様な彼らであることを前提に続きを見てゆきたいと思います。
では、この彼らの「しるしを見せてください」の願いにある「しるし」とは何でしょうか。
一般的に「しるし」は、サインや印鑑、証明書のことですね。
それが聖書では、むしろ先ほどのイエス様が病気の人をいやされた、奇跡の出来事が「しるし」になります。聖書の奇跡は、神様がまさに神様であると言うこと、イエス様がまさに救い主であると証明するもの、「しるし」なのです。
と言うことは、ファリサイ派の人々が「しるしを見せてください」と願うと言うことは、「イエス様、あなたの奇跡を見せてください」と言うことです。さらに言えば「わたしたちはあなたイエス様を救い主として信じているので、奇跡を見せてください」と願ったと言うことです。
ところが先ほど触れましたように彼らは、病気を癒やされた奇跡、「しるし」を起こしたイエス様のことを「悪霊の頭」と表現していました。
つまり、彼らはイエス様を信仰しての願いではなく、その逆で「悪霊の頭イエスよ、奇跡を見せてみろ」と願ったと言うことです。
そして、この企みに対してイエス様はこう返事をします。
「よこしまで神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」
イエス様はここで「分かりました。ではわたしの『しるし』、奇跡を見せましょう」とは言いませんでした。
むしろここでイエス様は「あなた方の正体はわかっている。よこしまで神に背いている者たちだ。そんなあなたがたに『しるし』、奇跡など見せるものか」と言ったのです。
イエス様は彼らの企みを察知したのです。
『わたしイエスを「悪霊の頭」と言って、全くわたしを信じる信仰がないのに、そのわたしに「しるし」、奇跡を願ってきたのは、おかしい。さては何を企んでいるのか・・・』と。
さらにイエス様はこうも言いました。
「よこしまなあなたがたは、わたしイエスの『しるし』、奇跡を欲しがっている。それがあなた方の企みだ。しかし、かつて活躍した預言者ヨナの『しるし』、奇跡以外の『しるし』、奇跡は、あなたがたに与えられない。わたしイエスの『しるし』、奇跡は、神に背いたあなたがたファリサイ派の人々に、与えられることはない。あなた方の企みは実現されないのだ」
ここでヨナという人が登場しています。
少し理解を深めるために、このヨナの物語についてお伝えしましょう。
「ヨナはある時、神様にこう命令されました。『ニネベに住む人々は、悪事を働いている。ゆえにその人々の所へ行って、彼らに悔い改めるように、反省するように言いなさい』」
しかしヨナはこの命令に背いて別の街に行ってしまいます。
その途中、ヨナは、逃げたことを知られた神様によって、大きな魚に飲み込まれてしまいました。そしてその腹の中で3日3晩、死んだかの様になって過ごさなければならなくなったのです。
しかし奇跡が起こり、ヨナはそこから生きて外に出ることができたのです。
そしてヨナは最初の神様の命令に立ち戻ってニネベに行き、悪事を働く人々に「悔い改めなさい」と説教を語りました。
すると人々は悔い改めたのです。
これがヨナの物語です。
先ほどのイエス様の言葉の中にヨナの「しるし」、奇跡、とのセリフがありました。これは何かと言いますと、ヨナが3日3晩、大きな魚の中で過ごしましたが、外に出ることができたと言う「奇跡」のことです。
そしてこのヨナの「しるし」、奇跡と同様にイエス様も3日3晩、死んで大地、地面の中にいることになりますが「しるし」によって、奇跡によって復活して地面から、お墓から、出られる。と言うことです。
イエス様は十字架上で死んだ金曜日から日曜日まで過ごした後、復活されたのです。これがイエス様の「しるし」、奇跡になります。
今日の箇所でイエス様はファリサイ派と仲間たちに「ヨナの『しるし』、奇跡はあなた方に既に与えられたが、わたしイエスの『しるし』、奇跡はあなた方には与えられない」と語りました。
ヨナの「しるし」、奇跡はあなた方も知っているように既に起こりあなた方にも与えられた。しかしこれから起こるわたしの「しるし」、奇跡は、わたしを信じていないあなた方に与えられるはずはない、と言うことです。
なぜならば、あなた方は、わたしが「悔い改めよ」と何度も言ってきたが、悔い改めない「よこしまな者たち」だからだ。ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたのに。
ここで問われていることは、ファリサイ派たちがイエス様に願う時の姿勢、信仰の姿です。イエス様の「しるし」、奇跡を願う時に、そのイエス様を救い主として信じているかどうか、です。
彼らはイエス様を救い主として信じていなかったのです。ゆえに、当然、イエス様の復活の「しるし」、奇跡は与えられない、と言うことです。
この箇所を通して、最後に、彼らファリサイ派たちの姿をわたしたち自身の姿に置き換えてみたいのです。わたしたちはどうなのか、が見えてきます。
イエス様を救い主として信じているか、どうか。もし信じていなければ、イエス様の復活の「しるし」、奇跡は与えられない、と言うことです。
しかし救い主と信じていれば、復活の「しるし」、奇跡は与えられるのです。
そう信じることで、わたしたち自身も、将来この世の命を終えた時に、復活できる、との救いの確信に至るのです。イエス様に続いて、わたしたちも復活できるのです。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、あなたの導きのもと、先週も歩ませていただき、今日を迎えております。それはわたしたちだけではなく、家族や友人も同様でした。導いてくださいましたあなたに感謝申し上げます。
時に悪い心を抱き、過ちを犯してきたわたしたちですが、それでも豊かに導いてくださったことに感謝しつつ、悔い改めます。
教会員、関係者を思って祈ります。蘇原教会員のSさんが4月27日に、あなたの導きのもと天国へと入られました。
若くしてクリスチャンとなられ、地域のために大工さんとして、白川町議会議員として働いてこられました。蘇原教会だけではなく、この中濃教会の会堂をも建ててくださいました。それ以後の修繕や納骨堂の建築、また牧師館の修繕と解体をも担ってくださいました。
神様、天国での平安をお与えください。そしてご家族と蘇原教会員に慰めをお与えください。
そして、わたしたちはこの会堂をこれからも大切に使い続けます。
明日はこどもの日です。しかし子どもの命が脅かされる出来事が大阪で起こりました。悲しいです。未だ自分の身を守る術を知らない子どもです。そのすべての命を大人が大切にできますように、子どもの命をあなたが守ってくださいます様に、切に願います。教会の前の道路も多くの車が通行します。子どもの命をお守りください。
この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
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