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説教 マタイによる福音書 12章 22~32節 「非難の言葉に注意」


招きの言葉


 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(しんり)をもって

 父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネによる福音書4章23節)


説 教  マタイによる福音書 12章22~32節

     「非難の言葉に注意」


 今日の箇所は先ず、目が見えず、口の利けない人がイエス様のところに連れられてきた、という場面からです。『イエス様ならば癒してくださるに違いない』と本人と連れてきた人はイエス様を信じていたのでしょう。


 案の定、イエス様はこの人を癒されました。見えるように、口が利けるようにされたのです。

 さぞかし、本人も連れてきた人も大いに喜んだことでしょう。


 そして、この癒しを見ていた周りの人々は「皆驚いて、『この人は、奇跡で癒したイエスは、ダビデの子ではないだろうか』と言った」と23節に記されています。

 「ダビデ」というのは、昔、人々のために働き、人々を救われ活躍したことで尊敬されてきた王様です。

 それゆえに「ダビデの子」、すなわち「ダビデの血を引いた、ダビデと同じような存在」と言われるということは、とても名誉なことで、まさに人々を救われる王様のような存在、と太鼓判を押されるようなことなのです。

 イエス様はここで「ダビデの子」と人々から言われ、敬意を表されたのです。

 

 しかしです。

 その場にファリサイ派の人々もいまして、彼らはイエス様のことを、こう言いました。


 「いやいや、この者、イエスは、悪霊の頭、リーダーであるベルゼブルではないか。この頭の力によらなければ、目と口の不自由な人の悪霊を追い出すことはできないのだから」(24節)


 「ベルゼブル」は「悪霊の頭」とされていますが、本来は同じくこのイスラエルの地域に昔から信じられてきた「別の宗教の神、バアル」のことです。ベルゼブルはギリシア語の言い方で、ヘブライ語では「バアル」となります。ところが、歴史的に、この別の宗教の神「バアル」と聖書の神(「ヤハウェ」)は対立していたことから、イスラエルの人々は「バアル」を憎んでしまい、そして『我々にとって「バアル」は悪霊のような存在だ、悪霊の神、まさに悪霊の頭だ!』と認識してきたのです。

 ゆえに今日の箇所に登場するファリサイ派の人々は「バアル」、ギリシア語で「ベルゼブル」は「悪霊の頭だ」と表現したのです。


 「イエスは悪霊の頭ベルゼブルで、その力によって悪霊を追い出した」というコメントは、イエス様を非難していることになります。イエス様の行いは誤っていて、それを指摘し、陥れ用としているのです。今日の説教題にある「非難の言葉」です。


 しかし、この非難に対して、イエス様は直ちにこう言い返しました。


 「わたしイエスが悪霊の頭、親分と言うのであれば、、、その力で、目と口の不自由な人から、子分の悪霊を追い出す、という行いは矛盾している。悪霊が悪霊を追い出すとは内輪の争いではないか、こんな争いをそもそも悪霊が望むはずはない。むしろ悪霊の頭ならば、子分を追い出さず、その人の中に居続けさせるのではないか。ゆえにわたしイエスは、悪霊の頭ではないのだ」


 イエス様はここで的確な返答をしています。イエス様は悪霊の頭、ベルゼブルではないことを証明してみせたのです。


 イエス様は、ファリサイ派の人々の誤りを指摘しました。これは、イエス様が彼らを陥れるように非難したのではなく、彼らが正しくなって欲しいという思いを込めて指摘し、批判したのです。非難と批判の違いです。


 さて、少し話を戻します。

 今回、イエス様は悪霊払いをされました。

 この悪霊払いは、歴史的に見ると、旧約聖書の時代から、祭司や祈祷師という聖職者によって行われてきました。

 お払の際、聖職者はどうやってしたのかと言いますと、悪霊と対する存在である神様の霊、聖霊を用いたのです。悪霊に相対し、さらには悪霊よりも強かったゆえに追い出すことができたのです。


 ということは今回のイエス様も、神様の霊、聖霊によって、悪霊を追い出された、と言うことになるのです。

 このことについて、イエス様自身が28節でこのように語っています。


 「わたしイエスが、神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国、天国はあなたたちのところに来ている、既に天国はこの地上にある」と。


 イエス様が神様の霊、聖霊で悪霊を追い出している、と先ず言っています。

 と言うことは、神様の霊、聖霊がイエス様を通して、この地上にやってきた、といことですね。

 言い換えれば、神様の力が、神様の支配が、イエス様を通して、この地上にも既に及んでいると言うことです。


 この地上にいるあなたたちファリサイ派の人々のところにも、他のすべての人のところにも、神様の霊が既に及んでいる、存在している、と。


 そう言う意味で、イエス様は、「すでに神の国、天国は、この地上にある」と語っています。


 余談ですが、マタイによる福音書は、このように、神の国、天国は死んだ後に辿り着ける場所という意味だけではなく、この地上にも及んでいる、というメッセージをしばしば語ります。


 例えば、5章のいわゆる「山上の説教」というイエス様のメッセージの中には、「心の貧しい人々は、(この地上で心の貧しい人々は)、幸いである、天の国はその人たちのものである」、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」とあります。「そのような人々は既に天の国、神の国にいる」という意味です。


 話を戻しまして、、、イエス様は、神の霊、聖霊を帯びて悪霊を追い出した、ということでした。


 しかし、ファリサイ派の人々は、このイエス様を「悪霊の頭」と言って非難しまし、それに対してイエス様は「内輪もめならば成り立たない」と批判しましたが、さらにイエス様は、今日の最後の箇所31節、32節でも、大切なこととして彼らを批判しています。


 このようなイエス様の言葉です。

 「言っておく。人が犯す罪や、人に向かっての冒涜、非難を言う行為は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜、非難を言う行為は、赦されない。聖霊に言い逆らう者、聖霊を冒涜する、非難する者は、この世でも後の世でも赦されることがない」


 イエス様はこのようにファリサイ派の人々に、最後、はっきりと、彼らに正しくなって欲しいと思って語りました。批判しました。


 霊を、聖霊を非難する、蔑める、、、これは、神様を非難する、聖霊を帯びているイエス様を非難する、蔑める、とも言い換えられるでしょう。そう言う行為は、赦されることがない、と言うのです。


 当時、民衆よりも、神様に近い存在とされていたファリサイ派の人々です。宗教の指導者たちです。ならば神様の霊を感じられる、信じられる、と言うことですが、しかし、ここでは神様の霊を帯びているイエス様を信じられず、非難したのです。矛盾しています。神様に近いのに、その神様の霊を感じることができず、その霊を帯びたイエス様を信じられなかったのです。

 

 これはわたしたちの現代の事柄で言い換えてみたいと思います。

 礼拝で、聖餐式というのを月1回行っています。そこではイエス様の体としてパンとぶどうジュースが出されます。そして「これは主イエス・キリスト、救い主であるイエスの体です。主イエスの流された血潮です」と牧師は宣言し、一緒に食べます。

 しかし「このパンとジュースはイエス様の体でも何でもない、単なるパン、ジュースだ」と思って非難し、イエス様を信じていない、というような状況でしょうか。


 『他人事ではなく、もしかしたら自分も単なるパン、ジュースと思っていないか。イエス様を神様を否定し、非難していないか』と自問してしまいます。ファリサイ派の人々と同じようになっていないか。


 では、どうすれば良いのでしょうか。

 パン、ジュースが単なる物ではなく、イエス様の体と信じるには、、、イエス様が病気の人を癒やされた奇跡や、さらには、イエス様が十字架で死んでも復活されたという奇跡、これらを少しでも信じる、と言うことでしょう。


 さらに言うと、同じように自分も病気になることや、大きな苦しみに預かるというときに、信じることになるのでは、、、(ハッキリと断定的には言えませんが)。


 そうならば、神様への非難の言葉は無くなるのかも知れません。

 

 かつて第二次世界大戦の時、ドイツでヒットラーのナチス・ドイツの迫害にあったクリスチャンがいました。ボンヘッファーという人で、39歳の若さで強制収容所で殺されました。その彼が収容所の中で手紙を書いています。その中にこのような言葉があります。


 「わたしたちと共にいる神とは、わたしたちを見捨てる神なのだ。〜神はこの世においては無力で弱い」


 収容所の中で彼は『神は助けて下さらないのか、神はおられるのか』と自問してゆく中で、こう書き記したのです。


 この言葉「見捨てる神、神は無力で弱い」は、神様を非難しているように思えます。


 しかし、、、よく読んでみると「神はいない、存在しない」とは言っていないのです。「無力で弱い姿だが、神は、おられる。十字架のイエスの姿のように無力だが、おられる」と。

 お祈りいたします。



牧者の祈り


 天の神様、先週もあなたの導きをいただき、今日まで歩ませていただき、こうして礼拝を捧げることができています。あなたに感謝いたします。

 そんなわたしたちは、身近な家族、友人を思って祈ります。体調を崩している家族のために癒しを祈る者とさせてください、そしてその祈りを聴いてください。


 教会員、関係者のために祈ります。

 Iさんが体調を崩しておられます。どうか癒しをお与えくださり、元気で働くことができますように、導いてください。またIさんのお母様は横浜にて過ごしておられます。お母様と、そのお母様の体調をお守りください。


 蘇原教会のSさんが蜂窩織炎というご病気で今も入院を続けておられます。しんどい状況です。それゆえに切にあなたに願います。回復をお与えください。ご家族の祈りを聴いてください。


 先週、狭山事件で冤罪とされた石川一雄さんがご病気のためにご逝去されました。無罪となるために裁判のやり直しを求めていましたが、それが叶わずでした。大きな悲しみを抱いています。どうか安らかに過ごせますよう導いてください。そして裁判やり直しが実現し、無罪が確定しますよう切に願います。石川さんを苦しめた部落差別がなくなりますように、切に願います。


 最後に、年度末を迎え、4月からの進路に不安を抱いている人々がいます。働く世代をはじめ、学生、生徒さんの中に希望を失いかけている人々がいます。どうか生き続けることができますように、導いてください。

 

 この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。

 アーメン。


一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)


 神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。


 アーメン。

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