説教 マタイによる福音書 4章 1~11節 「神に仕える」
- 西川 幸作
- 3月12日
- 読了時間: 7分
更新日:3月20日
招きの言葉 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(しんり)をもって 父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネによる福音書4章23節)
説 教 マタイによる福音書 4章 1~11節 「神に仕える」
今日の聖書の箇所マタイによる福音書4章1節以下は、イエス様が悪魔から誘惑を受けますが、それを退けるという内容です。 この内容は、わたしたちにとって、とても意味のある箇所と感じます。 それは、このイエス様の姿はわたしたち一人一人の姿に置き換えて考えることができるからです。悪魔の誘惑はわたしたちの身近にある誘惑と置き換えることができるでしょうか。 そのようにして今日の箇所を見てゆきたいと思います。 先ずこの箇所のテーマは何か、と言いますと、紛れもなく「神様に仕える」ということです。悪魔に仕えるのではなく、また誰か人に仕えるのでもなく「神様に仕える」です。 ですのでイエス様は悪魔からの誘惑を受けている時、念頭に置いていたお考えは「わたしは神様によって生かされ、歩まされ、そして神様によって死んでゆく」ということでした。 そのイエス様にとって、神様以外の存在によって、生かされたり、死んでいくということはあり得なかったのです。 そんなイエス様に悪魔は「空腹ならば、石をパンに変えよ」と唆してきます。これは悪魔の唆しによって、イエス様が生きるために必要なパン、食べ物を確保して生かされる、ということです。しかし「神様に仕える」イエス様にとってはお門違いでした。悪魔の唆しで、石をパンに変えるのではなく、神様の導きであれば、石をパンに変えた、ということです。これと同じように、2つ目の誘惑で、もしも悪魔ではなく神様の導きであれば、イエス様は神殿の屋根から飛び降りたでしょう。また3つ目の誘惑のことで、神様の導きであれば、すべての国とその繁栄を手に入れようとしたのでしょう。実際に神様は「パンに変えよ」と命令していませんし、「神殿から飛び降りろ」、「すべての国と繁栄を与えよう」とも言っていませんので、イエス様もそうする必要はなかったのですが。 最初の悪魔からの誘惑、40日間食べていない空腹のイエス様が受けた「石をパンに変えよ」は、まさに体も心も極限状態にある時に、言い換えれば、困難な時に、何が大切かが問われるということです。 イエス様は、「人はパンだけで生きるものではない」と答えます。「パンだけで」 と言っているので「人はパンで生きるものだけれども、それだけで生きるものではない」ということです。もちろん空腹を満たすパンは大事だ、と。しかし困難な時にそのパンだけではどうにもならない、というのです。 すべての悩みが、すべての困難が、パンを食べることで解決できるのであれば、パンだけで良いのですが、残念ながら、経済的にそれほど困っていなくても、涙を流して生きていかなければならない人はいます。家族の間の関係、職場での人間関係などの困難さに、パンは解決の鍵にはならないのですね。むしろイエス様は「神の口から出る一つ一つの言葉、神の言葉で生きる」と言われました。 教会にかかってくる電話の多くは、心の病を患っている人ですが、それだけではなく、しっかりと収入がある人でも、『明日、どうやって仕事に行こうか』とても悩んでいる50代の人々からも、わたしはその人のことをただ聞くだけで答えを与えることはできないのですが、その人にとっては『明日どうやって生きるか』という真剣な悩みであることは伝わってきます。 このことから「何を基軸にして、基本にして、拠り所として生きていくか」をわたしは問われました。 人には食べ物だけではなく、生きるに際しての基本になるものが必要なのです。その基本が何かを見出して、それを常に心に納めておくということです。 2つ目の悪魔の誘惑があります。「神様が天使を遣わして守ってくれるから、試しに神殿から飛び降りたらどうだ」 神殿はもちろん神様を礼拝する場所です、神様に仕える場所です。そんなところですが、悪魔は神殿を我が物のようにして、イエス様に「飛び降りろ」とそそのかしています。これは神様を疎かにするどころか、神様より自分が上に立とうとする姿勢です。ましてや助けてくれるか神様を試そうとするなど、もっての外です。 イエス様は、十字架の上で、人々からこう言われます。「神の子なら、奇跡を起こして、今すぐ十字架から降りて来い」(マタイ27章40節) それでもイエス様は降りなかったのです。神様に与えられた困難を困難として受け入れました。これは、神様に仕える、という姿勢です。 神様を信じていながら、神様を生きる基軸にすると思いながら、、、その神様を自分の目的に利用してしまうことはないだろうか・・・。自分が救われたいために利用していないだろうか、、、問われます。 最後、悪魔はすべての国々とその繁栄をイエス様に見せて、「これを与えよう」と誘惑してきました。この誘惑については歴史的な部分から見ていくのが相応しいです。 イエス様が生きていた、今から2000年前の当時、ユダヤ教に熱心党というグループがありました。彼らはパレスチナがローマ帝国に支配されている状況を打ち破って、自分たちの国を作ろう、と考えていました。そして多くの人々をその思想に巻き込んで行ったのでした。それだけローマの支配に苦しめられていたからですが、「世界を支配するローマに変わって我らが、エルサレム神殿を中心として真の世界を治める者となろう!」という思想だったのです。「すべての国とその繁栄」を手に入れたい、というものでした。 しかし一方で、この思想は、、世界の支配者になって、結局、ローマと同じようになっていくのではないか、と、当時のすでに存在していたキリスト教会は危険視していったのです。神様の望んでいることは、エルサレム神殿が世界の中心になることではない、という考えからでした。ちなみに、これは時代を経て、キリスト教会が世界の中心ではない、ということにもつながっています。 イエス様は悪魔の誘惑に対してはっきりと、「退け、サタン。そんな繁栄などいらない!」と言われました。 「わたしが中心でなければならない」、「わたしたちが中心でなければならない」 そんなことを常に思ってしまいます。もちろん、そんな「わたし」に、「わたしたち」に他の人々を導く力があれば、中心になっても良いのですが、果たして、あるのでしょうか。そんな力があるのは神様だけなのかも知れません。 イエス様はすべての誘惑を退けました。それは「神様に仕える」ことを大切にしていったからです。 イエス様のこの姿からわたしたちの歩むべき姿が見えてくるのです。 お祈りいたします。 牧者の祈り 天の神様、あなたの導きによって、先週も歩ませていただきました。あなたに感謝いたします。そんなわたしたちは身近にいる人々を思って、祈ります。共に歩む家族に祝福をお与えください。隣に住む人々が毎日無事に過ごせますように、導いてください。 教会員、関係者のために祈ります。Kさんがインフルエンザにかかられました。持病をお持ちで、さらに足の不自由さもあります。どうか癒しをお与えください。また精神的にも支えが必要です。あなたの温もりをお与えください。 Fさんご夫妻を覚えて祈ります。お二人は美濃太田伝道所で、小暮光司牧師の司式でご結婚されました。小暮牧師と親しい仲であったと伺っています。今、ご夫妻とも持病があり通院されています。どうか回復をお与えくださり、日々喜びを感じて過ごせますように、導いてください。 3・11から14年が経過しようとしています。地震、津波の被害に遭われた人々を慰めてください。 福島の原発事故の被害を受けた人々は今も避難を続け、生活をしておられます。放射能の問題で故郷に変えることが難しい状況です。どうか、行き場のない思いにあなたが寄り添ってください。そして同じ災害が2度と起こらないように、わたしたちが原子力の見直しを積極的に考えてゆきますように願います。 この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。 アーメン。 一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。) 神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。 アーメン。
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