説教 マタイによる福音書 20章 20~28節 「権力と正反対に生きる」
- 西川 幸作
- 4月6日
- 読了時間: 7分
説 教 マタイによる福音書 20章 20~28節
「権力と正反対に生きる」
腹一杯に食べるよりも、それを他の人と分けて一緒に食べる。自分のやりたいことを犠牲にする。お金は大事だけど、それに執着しすぎない。いつも祈る。人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にする。
今言いましたこれらの事柄のうち、全てできたのはイエス・キリスト、イエス様だけでしょう。アッシジの聖フランチェスコやマザーテレサならば、2つか3つはできたのでしょうか。
わたしは、どうかというと、1つだけでもしているか、疑問です。
それでも、全然しなくても神様はわたしを天国に導いてくださると信じています。
ただ、そんな何一つせずに天国に導かれて良いのだろうか、そんな生き方で良いのだろうか、とも思うのです。
やはり改めて、この地上でどう生きるか、先ほどの1つだけでもなんとかして行けるように心がけて日々を過ごすことが大切でなはいか、と思うのです。
今日、与えられた聖書の箇所は、マタイによる福音書20章20~28節です。
舞台は、イエス様と弟子たちがガリラヤからエルサレムの街へと向かう途中で、まだ出発して間もなく、ガリラヤ地方か、もう少し進んでサマリア地方か、もしくは到着地点近くのユダヤ地方です。
弟子たちの中に、ゼベダイという男の妻で、息子ヤコブとヨセフの母もおりました。彼女が息子たちと一緒にイエス様にこのように願いました。
「イエス様、あなたが、将来、天国の王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れる、とおっしゃってください」
これは、母による愛する息子たちのための願いでした。
そもそも天国にはこのようなイエス様の近くに座ることのできる座、椅子が備わっているとされています。それも12の座があるというのです。この12の座はイエス様の側近の弟子12人のものとされています。
ゆえに弟子たち12人は皆、天国にある座に着くことが許されていました。19章28節にはこのようなくだりがあります。
「イエスは(弟子たち)一同に言われた。『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座って、イスラエルの十二部族を治めることになる』」
話を戻しますと、この12の座の中で「最もイエス様に近い左右の席に座らせてください」という願いでした。言い換えれば「他に10人の弟子たちがいるけれども、優先させて座らせてください。そのような地位を、権力をください」という、なんとも厚かましい様な願いです。
それゆえ、イエス様はこのように返答します。22~23節です。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」
イエス様はここで、この願いは彼女らの勝手な願いであること、さらに、そもそも誰が座るかはイエス様の父である天の神様が決められること、を語りました。
すると24節では、この母とイエス様のやり取りを聞いていた他の10人の弟子たちは「腹を立てた」とあります。
イエス様の左右に座ろうとしているヤコブとヨセフに対して『お前たちだけそんな願いをするのは、間違っている』ということで腹を立てたのです。
と同時に、もう一つ、『俺たち10人も左右に座りたいけれど、先にお願いするなんて、ずるいぞ』という、妬みから「腹を立てた」のでした。むしろこの妬みが大きかったと推測します。
つまり、12人の内、2人だけが『イエス様の左右に座りたい』と願っていたのではなく、他の10人も口には出さなかったけれども実は同じように願っていた、ということです。「腹を立てた」というのはそういうことなのです。
そこで、12人みんなが同じように願っていることに気づいたイエス様は、一同を呼び寄せて、こう告げられました。26~27節です。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では(今、この世で)支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」
先ずイエス様は「(今、この世で)支配者たちと偉い人たちが支配し、権力を振るっているが、あなた方はそうであってはならない」と語りました。その様な権力者になって欲しくないということです。
そしてイエス様が言いたかったのはその次で、こういうことです。「もし将来、、、あなた方が天国に入った時に、偉くなりたい者は、天国に入った時に、いちばん上になりたい者は、今、この世で、皆に仕える者、皆の僕になりなさい」ということです。
将来の天国で偉くなりたい者は、地上で過ごす今、皆に仕える者になり、皆の僕になりなさい」というのです。
この「天国で偉くなる者、上になる者」とは、まさに最初に出てきました「王座の右と左に座る者」のことです。最初に、2人の息子たちの母が願ったことです。
将来天国で、右と左に座りたいと願うならば、、、地上で過ごす今、皆に仕え、僕になって、地上の末席に座るような立場で歩みなさい、ということです。
仕える者となれば、天の父である神が右と左に座るのをお許しになる、ということです。
これは、最終的にこの地上で偉くなれる、上になれる、ということではないのです。
地上で、生きている間に、偉くなりたい、上になりたい、と多くの人々は願うでしょう。
しかしその欲を捨てて、むしろ天国で偉くなるという欲でありなさい、というのです。そのために、この地上で人に仕えなさい、ということです。
なぜこの様なことをイエス様はおっしゃられたのでしょうか。
なぜなら、イエス様は、当時の支配者であったローマ帝国の役人たちや、パレスチナの王であったヘロデ王、エルサレムのユダヤ教のファリサイ派たちの姿、生き方を見てきたからでした。
彼らの姿、生き方が本当のあるべき姿、生き方なのか。
彼らのどこに、人の上に立って支配する者たちのどこに、参考になる生き方があるだろうか、という疑問からでした。
権力と正反対に生きること、イエス様が望んでおられた生き方です。
お祈りいたします。
牧者の祈り
天の神様、あなたのお導きをいただき、こうして礼拝を捧げることができています。あなたに感謝いたします。この様なわたしたちは身近にいるあなたのお導きを必要としている人を思って祈ります。どうか病の回復をお与えください。心の悲しみを癒してください。
教会員、関係者を思って祈ります。Iさんのお兄様であり、坂祝教会の初代、岩井文男牧師のご次男であるK牧師が3月31日に息を引き取られました。あなたは91年のご生涯を歩み支えられて、最もふさわしい時を備えてくださったと思います。そしてK牧師を通してわたしたちは支えられ、励まされ、今日まで歩ませていただきました。特に青年時代のK牧師に支えられ、牧師になられてからもこの地を何度も訪れてくださり、お支えくださいました。あなたとK牧師に感謝申し上げます。そしてお連れ合い様はじめ、ご家族の皆様、Iさんに慰めを豊かにお与えください。
ミャンマーやタイで大きな地震が起こり、今も捜索活動が続いています。どうか命をお守りください。また家を失った人々に必要な物資が与えられます様に、導いてください。
4月より日本では新しい歩みが始まります。働き始める人、学び始める人、もしくは働き終える人、学び終える人、新しい日々となります。教会も同様です。新しく花が咲き乱れる様に、新しい皮袋を備えて、鞄を持って、新しい気持ち、意気込みを抱いて歩ませてください。
この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)
神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
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