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説教 マタイによる福音書 21章 1~11節  「柔和、にそして自由に」



 今日から、イエス様が十字架で命を終え、そして復活するまでの1週間を記念する受難週となります。

 中濃教会でも今週木曜日には洗足の木曜日夕礼拝、金曜日には受難日夕礼拝を行う予定です。そして土曜日はイエス様が復活されるまでの間の1日を過ごし、日曜日にはその復活を記念してイースター礼拝を守ります。

 イエス様にしてみましたら、この地上を歩まれた日々の中で、一番苦しいひとときがこの1週間でした。


 その日々はエルサレムの街に入られたことに始まり、この都会でイエス様は、翻弄され、侮辱され、殴られて、鞭打たれ、十字架につけられていくのです。


 以前、イエス様はご自身でこのように語っていました。20章17節以下です。


 「イエスはエルサレムに上ってゆく途中、十二人の弟子たちを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子(であるわたし)は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人であるローマ人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は3日目に復活する。」


 イエス様はこうして事前に弟子たちに苦しみを受けることを予告されました。

 これは、逃れることのできない、神様に与えられた運命、というようにです。

 しかし、殺された後、3日目に復活する、とも語りました。 

 これは、復活するために、苦難を受け殺されなければならない、ということです。

 このような理由もあり、イエス様はエルサレムの街にやってきたのです。

 十字架、復活、これがテーマではありますが、今回はそれらに加えてもう一つ別の事柄をテーマにしてみたいと思います。


 街の手前で、イエス様は向こうの村の、とある家で弟子たちが借りてきた子ろばにお乗りになり、そして、そのまま街の中を行進しました。


 実は、そのイエス様を群衆は大いに歓迎したのです。8節にある通りです。


「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」


 群衆はイエス様のために自分たちの服を道に敷いたのです。それだけでなく、ほかの人々は、木の枝、これは他の福音書では「なつめやしの木の枝」とありまして、おそらくそうでしょうか、それを道に敷いたのです。服を敷くことも枝を敷くことも、イエス様に敬意を表す行為でした。


 では、なぜ人々はイエス様を歓迎したのでしょうか。


 それは、もちろんイエス様を神様の子として救い主として信じる信仰からでした。


 ただ、それだけではなくもう一つ、歓迎した理由があります。そのことに注目したいのです。


 それは、今日の箇所の前半部分と関係しています。

 先ほど触れましたが、イエス様は弟子たちが借りてきた子ろばにお乗りになっておられました。


 この「子ろばに乗る」という行為は今日の箇所の4〜5節にある通り、旧約聖書にちなんだ行為なのです。

 このようにあります。


「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」


「ろばの子、子ろばに乗って、柔和なイスラエルの王がおいでになる」

 ということです。

 

 この「王」は「メシア」、「救い主」と言い換えることができます。


 そうしますと、

「子ろばに乗って、柔和なメシア、救い主がおいでになる」ということです。


 イエス様がこの「子ろばに乗った柔和な存在」だったことが、歓迎した大きな理由でした。 

 「柔和な」救い主、イエス様ということです。


 かつてマタイの11章29節でイエス様はご自身のことを「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負いなさい」とも言っていました。

 ちなみに、他人に言われるのではなく、イエス様ご自身でご自身のことを「わたしは柔和で謙遜だ」と言うのは間違っているのではないか、と思うかも知れませんが、福音書を読めば実際にイエス様はその通り柔和で謙遜な人であることが分かります。


 では、ここで、この「柔和」とは何なのか、問うてみますと、先ほど一緒に出てきました「謙遜」と言う言葉、この「謙遜」と同じ様な意味ということです。そして、大きな軍馬のようなろばではなく、子ろばを選ばれた、この態度が「柔和」であるということです。

 

 ただ、この「柔和」について、もう少し深めてみたいと思います。


 そもそも、人が「柔和」になるためには、何が必要でしょうか。


 ある書物には、この様な文章がありました。


 「『柔和』は『弱さ』ではありません。『弱さ』の対極にあります。『柔和』は内面的な『力』、『エネルギー』を必要とします」


 この文章を「謙遜」と言い換えてみても良いでしょう。

 「『謙遜』は『弱さ』ではありません。『弱さ』の対極にあります。『謙遜』は内面的な『力』、『エネルギー』を必要とします」


 この「力」は内面的なとあるので言い換えると「精神力」のことでしょう。


 とどのつまり、「柔和」、「謙遜」であるには、武力などの外面的な「力」ではなく「精神力」が必要である、ということです。


 それゆえイエス様は軍馬ではなく子ろばを選ばれたのでした。


 「柔和」になるためには、実は、内側が強くなければならない、ということです。


 このようなことに思いを巡らしていましたら、1つの詩が浮かんできました。

 それは「寒梅の詩」です。

 このような詩です。


 

 「庭の上にある一本の寒梅の木、笑いながら、風や雪を侵して開く、争わず、また、力(りき)まず、自ずから咲く、百の花々の先駆け」

 

 寒梅の花は、雪の中、争わず、力まず、百の花々の先駆けとして、笑いながら自ずと咲く。


 雪の中、先駆けとして咲くということから、一読すると力強さを感じるのですが、これは内側にある精神的な力のことです。


「争わず、目に見えるように力まず、笑いながら」という姿に「柔和さ」を感じないでしょうか。


 この「柔和さ」が今日のイエス様に備わっている、いや、「柔和さ」に満ち溢れたイエス様だったのです。


 人々は、この柔和な救い主イエス様に惹かれて、歓迎したのでした。


 そしてこのイエス様の柔和さは、この後も続きます。

 この後のイエス様の十字架に架けられるまでの歩みを見ますと、力づくで抵抗するような場面は一つもありません。侮辱されて、唾を吐きかけられて、そして殺されてゆく、、、外面的に弱さを感じる姿です。しかし実は、争わず、力まず、耐えて咲く寒梅のような「柔和さ」がこの姿にあると思えてならないのです。

 侮辱される時も、十字架の上におられる時も、死ぬ直前も、表面的には笑っていません。しかし心の中で、柔和であり、笑っておられるのです。心の中は、自由なのです。閉ざされていなくて、将来がある姿なのです。


 一見すると、イエス様は、周りに、この世の権力に縛られている、捉えられているように見えるのですが、、、内側はそうではなく、神様のもとで解放されている、自由で、自治、自立しているのです。それゆえの苦しみ、いや「笑い」なのです。雪で覆われているけれども、将来がある、将来が保証されている「笑い」なのです。

「復活」という「笑い」へ。


 子ろばに乗られる「柔和な」イエス様は、今の苦しみだけに縛られない、将来を眺めている姿、「笑っておられる」姿なのです。

 

お祈りいたします。


牧者の祈り


 天の神様、わたしたちをいつも導いてくださり、ありがとうございます。こうして今、礼拝を捧げることができています。

 イエス様の十字架までの道のりを思って過ごす日々となりました。わたしたちは人を愛することのできない者ゆえに自ら苦しまなければならなかったのですが、イエス様は代わりに犠牲になって苦しんでくださいました。そしてわたしたちを愛する者へ変えてくださいました。そんなイエス様とイエス様を与えてくださいましたあなたに感謝いたします。

 そしてわたしたちはこの犠牲を忘れず、愛することを日々実践し歩んでまいります。

 それゆえ身近にいる人々を思って祈ります。この4月に新たな地で歩み始めた友、新しい環境で学び始めた友がいます。どうかその友の日々を守り支えてください。

 教会員、関係者のために祈ります。外国にルーツを持つ人々がいます。Rさんは名古屋で介護の仕事をされながら生活をされています。この教会に集うフィリピン合同教会の皆さんは、近隣の工場などで働かれています。中には朝早くから、夜遅くまで勤めなければならない人、また体を酷使して腰や足を痛められる人もいます。どうかそのような生活が改善されますように。体も心も自由になり過ごすことができますように導いてください。

 

 この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。

 アーメン。


一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)


 神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。


 アーメン。


 
 
 

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