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説教 マタイによる福音書 28章 1~10節  「おはよう(^^)」

更新日:4月21日





 マグダラのマリアという人と、もう1人、イエス様を慕っていた同じマリアという名前の人、この2人が、イエス様の遺体が納められていたお墓を訪れました。

 

 このマグダラのマリアは、どういう人かと言いますと、もともと7つの悪霊に取り憑かれていて大きな病気を抱えていましたが、イエス様によってその病気が癒やされたという経験があります。その経験から自分の持ち物、財産を出して、イエス様に仕えてきました。イエス様に助けられたことに感謝し、歩み続けてきた人です。


 そしてもう1人のマリアも、どういう人かは分からないのですが、マグダラのマリアと同じようにイエス様に助けられた経験があったと思われます。ゆえにイエス様に会いに行きました。


 今日の箇所の手前、27章61節には、この2人は、イエス様の十字架での死の直後、イエス様の遺体がお墓に納められるとき、ずっと遺体のそばを離れず「残ってお墓の方を向いて座っていた」と聖書は記しています。それだけイエス様が愛おしかったのでです。

 言い換えれば、イエス様が十字架につけられて殺されたことを、とても悲しく受け止め、『イエス様には生き続けて欲しかった』と強く思っていたのです。


 そんな思いを抱く2人は、イエス様のお墓の入り口には大きな石があって、中に入れないことを承知の上、訪れたのです。それは『イエス様の遺体に直接会えなくても、その手前まで来ることだけでも会えたことと一緒』という思いからだったのでしょう。

 ちなみに他の福音書にある同じ内容の箇所では、イエス様の遺体に香油を塗って差し上げるためにやって来た、とされています。しかしマタイ福音書では「(マリアたちはイエスの)墓を見に行った」とだけ書かれています。

 

 そんな2人は、これから大きな奇跡、復活を経験することになります。

 むしろ2人のイエス様への厚い思い、いわば厚い信仰もあって、復活が起きた、とも考えられそうなのです。もちろんイエス様の復活は神様の仕業ですが、それだけではなく、この2人の信仰も大いに影響しているのではないか、と思えてくる物語です。

 

 2人はお墓に到着しました。

 すると突然、大きな地震が起こったのです。と同時に主の天使、神様の天使が天から降ってこられました。そして天使は大きな石をわきへ転がしたのです。


 この時、お墓の前には見張りの門番兵がおりました。しかし、この地震と天使が現れたことに恐れて、死人のように気絶してしまいました。よって番兵はこの後、何が起こったのか、一切、記憶になく、登場人物から外れます。


 そして天使は2人のマリアにこう言います。

「恐れることはない。あの方はここ(お墓)にはおられない。かねて(あの方自身が)言われていた通り、復活なさったのだ」


 「復活なさった」


 この天使の言葉は2人にとって、計り知れないほどの大きなものとなります。


 冒頭でお伝えしました通り、マグダラのマリアはイエス様に病気を癒やされ助けられたことから、イエス様を慕って仕えてきました。もう1人のマリアも同様だと思われます。


 そんな2人にとってイエス様が死なれ、いなくなったことは、言葉にできないほどの悲しみでした。大きな悲しみから、前が見えなくなるくらいでした。

 わたしたちも愛する人との別れが、大きな悲しみとなるのと同じ様にです。


 おそらく2人にとってイエス様は、、、「生きる目的」だったのかも知れません。助けられただけではなく、イエス様は尊敬する存在で、イエス様のように他者を愛する生き方をしたい、そのような「生きる目的」となっていたと思えるのです。


 その目的が失われた、亡くなったわけですから、それは、言い換えれば、自分自身が亡くなる、自分を見失う様な悲しみ、痛みを負ったということです。



 かつてイエス様が、サマリア地域のとある井戸の側で、ある1人と出会ったことがありました。この名もなき人は言葉では表現できないような心の痛み、心の渇きを抱えていました。『どうやって生きていこうか』、『生きる目的を見失った』ように悩み過ごしてきた人でした。そのような人が、井戸でイエス様と出会い、こう願ったのです。

 「(イエス様)永遠の命に至る水、枯れることのない水を(わたしに)ください」。

 

 もしかしたら、今日の箇所の2人のマリアも、この人の様な心境だったかも知れません。

 

 ところが、、、「生きる目的」とまでなっていたけれども死んでいなくなってしまった、そのイエス様が、「復活なさった」と聞いたのでした。


 この天使の知らせは、この「復活」の知らせは、2人にとっては“驚き”以外の何者でもありませんでした。180度変えられるような知らせでした。

 その言葉を聞いて、悲しみが表現できないほどの喜びに変えられたのです。


 『イエス様が復活された。愛する人が復活された。またお会いできる!心から喜びが湧いてくる』

  

 そしてまさに2人はこの復活を現実に経験することになるのです。


 2人がこの一連のことを他の弟子たちに伝えようと、帰路についている最中でした。


 「おはよう(^^)」

 聞き覚えのある声でした。

 朝、顔を合わせて交わした「おはよう(^^)」。

 それは着慣れた服を今朝も身にまとう様な感覚。いつもの靴を履いて出かける、当たり前の様な感覚です。その服や靴は珍しくもなんともありません。その様な一緒に過ごしてきた様な馴染みのある「おはよう(^^)」でした。

 

 『もう「おはよう(^^)」を聞くことはない』と思っていたのに、また聞こえる様になったのです。


「おはよう(^^)」


 2人は、復活されたイエス様と出会ったのです。

 

 喜びです。


 かつてイエス様は人々にこの様に言っていました。

 ヨハネ福音書16章20〜22節です。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」


「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは、心から喜ぶことになる」


「おはよう」


 そして2人はイエス様の足を抱いてひれ伏しました。嬉し涙を流しながら。

 

 愛する人との再会、その時、喜びが湧き上がってきます。

 最後は、、喜びでした。


 「復活」を信じて歩み続けましょう。


 お祈りいたします。


牧者の祈り


 天の神様、あなたの導きをいただき、先週も豊かに歩ませていただきました。あなたに感謝いたします。その様なわたしたちは隣人のことを思って、祈ります。どうか命をお守りください。生きる喜びをお与えください。

 教会員、関係者のことを思って祈ります。

 病気を負う人々のことを思います。痛みがあり、思う様に体が動かなく、気持ちも不安定になります。神様どうか回復をお与えください。痛みを取り除けてください。自由をお与えください。

 不安を抱えている人々のことを思います。何かの圧力を感じている人、生きづらさを感じている人、孤独を感じている人、差別を受けている人、経済的に困難な人、どうか神様、この皆さんに、生きる喜びをお与えください。イエス様の復活の光をお与えください。

 復活してくださったイエス様は、わたしたちだけではなく、教会だけでなく、すべての人にとっての喜びです。それは、土の中で冬を耐え過ごして、春に咲く花々のように、その花々の蜜を味わうミツバチのように、イエス様は喜んでおられます。

 イエス様は喜んで復活されました。そのお顔は笑っておられました。もう悲しみ去った後の笑顔でした。

 わたしたちを含むすべての人も、その喜びを味わいたいのです。笑顔でいたいのです。

 お与えください。

 笑顔であり続けますように、わたしたちに祝福ありますように。


 この小さなお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。

 アーメン。


一人ひとりの祈りの時を持ちましょう。(しばらく黙祷しましょう。)


 神さま、わたしたちの祈りを聞いてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げいたします。


 アーメン。

 
 
 

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