説教 テサロニケの信徒への手紙 一 1章2〜10節 「強い確信を抱いて」
- 日本キリスト教団中濃教会
- 2023年8月18日
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テサロニケの信徒への手紙はパウロという人によって書かれました。 このパウロは、イエス様と同時期を生きました。彼はあるときにイエス様を信じるキリスト者になります。それから生き方が変わり、果敢にそのイエス様のことを伝える宣教活動をしてゆきました。彼は合計3回も宣教活動旅行を行いました。その2回目の宣教旅行の際に、このテサロニケの街を訪れます。ちなみにその際、彼は志を同じくする2人の伝道者を連れていました。シルワノとテモテという名の人たちでした。 テサロニケはギリシアの北部にある港町です。ここはギリシアのアテネに次ぐ大きな町でした。ですから人口は多く、いろんな人々、この街のギリシア人だけではなくローマ人もいましたし、その他の地域の人々もいました。そしてユダヤ人も少なくなかったと言われています。この街の人々がパウロの宣教によってキリスト者となっていったのです。それだけ彼の影響力が大きかったのです。 実は3人がこのテサロニケの街で宣教をしたのには大きな理由がありました。それは異邦人、ユダヤ人から見て外国人にイエス様のことを伝えてゆくという使命からでした。この街の人々、主にギリシア人ですね、その人々にです。 パウロは「わたしたちには神様やイエス様から教えが与えられている」ということ、「その教えの中で『隣人を愛しなさい』が代表的で、他にもさまざまな教えがある」と語り、更に、、「神様とイエス様による救いがある」ということも語りました。「もしも命を終えても、その後復活して、最後には救われる」ということです。「死んで終わりではない」という救いをパウロは強い確信を抱いて語ったのでした。 当時のギリシア人たちには元々の宗教がありましたが、ギリシア神話というのを皆さんは聞いたことがあると思います。女神がいたりさまざまな神様がいました。それらよりも聖書の神様とイエス様による救い、がテサロニケの人々にとっては相応しかった、一致していたのでしょう。多くの人々がキリスト者になっていったのです。そして教会が誕生したのです。 ところが思わぬ出来事が起こります。この街にはイスラエルからやってきて住んでいたユダヤ人たちも少なからずおりまして、彼らは、なんとかしてパウロたちを陥れようとしたのです。このユダヤ人たちはイエス様を救い主と認めていない人たちでした。ですのでイエス様の弟子たちも認めていませんでした。当時のイスラエルにもちろんこのようなユダヤ人たちはおりましたし、外国の地にもいたのです。ユダヤ人たちは、パウロやシルワノに向かって非難してきたのです。「あなた方が信じているイエス様は救い主ではない」と。更にユダヤ人たちは、パウロたちがイエス様を救い主としていただけではなく、救いの王様、リーダー、とも信じていました。王様のようなイエス様がわたしたちを救いへと導いてくださる、としていたのです。王様=イエス様、という信仰ですね。しかしユダヤ人たちは「イエスが王様であるはずはない。現にローマ帝国の王様、皇帝がいるではないか。王様は一人だけだ。そのローマの王様を差し抜いてイエスを王様と称していることは大きな問題だ!」と非難してきたのです。 このような非難を受け最終的にパウロたちはこの街にいられなくなり、去ることになってしまったのです。 しかし去った後でもパウロたちはこのテサロニケの街の人たちのことを覚えて祈り続けたのです。それゆえパウロは遠くからこの街の人々のために手紙を書き送ったのでした。この手紙が今日の聖書箇所、テサロニケの信徒への手紙です。 もう少し具体的に言いますと、教会で問題が発生したとの知らせが遠くにいるパウロのところに舞い込んできたのです。その問題のためにパウロはアドバイスを記した手紙を送ったのです。具体的にその問題とは何かと言いますと複数ありましたが、その一つは、救いについてでした。先ほどパウロたちが実際に宣教活動において救いについて語っていきましたが、再度、手紙においても語る必要があったのです。テサロニケの信徒一人一人も、もし命を終えたとしても、復活することができる、そして最後には救いに預かることができる、ということを強い確信を抱いてパウロは手紙でも語ったのです。 パウロはこの救いについて強い確信を抱いていました。なぜかと言いますと、彼は神様の力、イエス様の力を肌で感じていたからでした。 彼は自分の生涯を宣教に捧げました。以前はある程度裕福な立場にいたのですが、キリスト者になってからは自分でテント職人という仕事をしながら、時には貧しくなり飢えを経験することもありました。訪れた街々で受け入れられず患難を経験することもありました。それでも人生を宣教のために捧げることができたのには理由があります。 彼は、弱さを強さに変えてくださる神様の力、イエス様の力、聖霊の力を信じていたからです。まさに救いの力ですね。それが心の核心にあったパウロです。 彼自身、このように語っています。ローマの信徒への手紙8章35〜39節です。 「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。 神様の愛は、神様の救いは、どのような人にも与えられる、ということです。 この強い確信を抱いていたパウロは、テサロニケの人々に、神様、イエス様の救いがあることを語っていったのです。 パウロはわたしたちにも語りかけてくださいます。 神様の愛は、イエス様の救いは、あなた方すべてに与えられるのだ。将来の命の終わりに必ず復活が与えられ、救いが与えられるのだ。 お祈りいたします。
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