2025年4月9日(水)祈祷会
- 西川 幸作
- 4月12日
- 読了時間: 3分
聖書静聴・黙想 ヤコブの手紙 3章1〜12節(新424頁)
(聖書箇所に静かに聴き、黙想する)
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。
御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません」
イエス様の弟子の1人であったヤコブは既にあったキリスト教会の人々に手紙を通して旧約聖書とイエスの教えについて語りました。
その教えの一つとして、「舌」の取り扱いについて今日の箇所で語っています。
この箇所の「舌」とは、「人の発する言葉」と言い換えられるでしょう。その「言葉」はもちろん主を賛美するために用いられるのですが、一方で「呪い」にもなり(9節)、大きい森を燃やしてしまう「火」であり(5節)、「不義の世界」であり(6節)、「疲れを知らない悪」(8節)、さらには「死をもたらす毒に満ちている」(8節)と言われています。
この「言葉」で人は過ちを犯しますが、一方で「言葉」で過ちを犯さない人がいるならばその人は「完全な人」(2節)と言われています。この「完全な人」とは、ヤコブは実際に書いて表現していませんが「イエス・キリスト」のことであると読み手は想像できるでしょう。この「イエス」は完全な「教師」であり、イエスでない他の人々は、「言葉」を制御できて初めて「教師」になれるということです(1節)。
そういうことであれば、誰も教師になることができない、という結論ですが、むしろそれほどまでに「教師」は「舌」、「言葉」の取り扱いに最大限注意して欲しいとヤコブは訴えているのでしょう。加えて「教師」だけではなく全ての人も取り扱いに注意する必要があるということでしょう。
では具体的にどうすれば良いのか、これについてはヤコブは語っていません。読み手であるわたしたちに委ねられています。
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