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2025年5月7日(水)祈祷会

聖書静聴・黙想 ヨハネによる福音書 4章1〜26節(新168頁)

(聖書箇所に静かに聴き、黙想する)


 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」



 サマリアにあるヤコブの井戸(6節)で、イエスは一人の女性とやりとりをします。この井戸はアブラハムの孫ヤコブが、アブラハム一族と対立していた異邦人であるペリシテ人と争って勝利したことで手に入れたものでした。ゆえにヤコブ以後のイスラエル民族(ユダヤ人)はこの井戸を大切にしてきました。後の時代にこの地にイスラエル民族と異邦人との結婚で混血となって生まれたサマリア人たちが住み始めますが、そのサマリア人にも引き続き大切にされてきました。サマリア人にとってもヤコブは祖先だったからです。この井戸は、イスラエル民族から混血という理由で汚れているとされ差別されていたサマリア人と、そのイスラエル民族を結びつける象徴と言えます。

 先ずイエスは彼女に「水を飲ませてください」(7節)と働きかけます。分け隔てなく接するように。案の定彼女はイエスに「ユダヤ人(イスラエル民族)のあなたがなぜ(サマリア人)のわたしに頼むのですか」(9節)と言い交流を避けようとします。それでもイエスは彼女とのやりとりを続け「渇くことのない永遠の命に至る水」(14節)をあげようとします。イエスの目的は混血を超えた、民族を超えた交流、救いの実現だったからです。このイエスの目的を知った彼女は「その水をください」と答えます。

 イエスの目的はもう一つありました。彼女は過去に5人の夫がいたことで周囲から「ふしだら」な存在とみなされていたのですが(18節)、それでも尊い一人の人であり、救いに預かれる、と伝えるためでした。いや、むしろ彼女のように自分の過去を認め(過ちを認め)歩む存在こそが「まことの礼拝をする者たち」(23節)と伝えるためだったのです(ちなみに23節は中濃教会礼拝「招詞」、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」)。

 救いは民族、また過ちの有無に関わらず、分け隔てなく与えられる、このイエスのメッセージに励まされ、慰められます。

 
 
 

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