26年5月27日(水)すみれ会メッセージ
- 西川 幸作

- 5月27日
- 読了時間: 5分
「さまざまな人と共に歩む教会」
はじめに
「さまざまな人と共に歩む教会」という題とさせて頂きましたのは、礼拝に病気の人、車椅子で参加される人もおられる現状を鑑みてのことでした。この現状から、聖書を読みつつ、また他の文献をも参考にしつつ、教会はどの様な姿が相応しいのか、大切にすることは何か、についてご一緒に考えてゆければ幸いです。
「神の被造物」
創世記の天地創造の物語に「神はお造りになったすべてのもの(人を含む万物)を御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1章31節)とあります。
神様の被造物である「すべてのもの」の中には、もちろん、大地、生物、そして人も含まれますが、病気の原因であるウイルス、細菌や癌なども含まれるということです。さらに神様から「極めて良かった」と認印を押されています。
加えて言えることは、障がい者として生まれたとしても、その者は神様に「極めて良かった」とされている、ということです。
「病気は恵み」
病気になることは神様の被造物(ウイルスなど)が原因、ということからすると、病気になることにも意味があるのでは?という疑問が生じます。また障がい者として生まれた、(人生の途中で)障がい者になった、ということにも意味があるのでは?という疑問も生じます。これらの疑問は、なぜ神様はウイルスを作られたか?なぜ神様は障がい者を「極めて良かった」とされたか?という問いとも関連しています。
(参考文献 樋野興夫「聖書とがん」22〜24頁)
「苦難のヨブの気づき」
旧約聖書に登場するヨブは、多くの苦しみを主である神様から与えられます(詳しくは、神様の許可を得たサタンから苦難を与えられる)。
そもそもヨブは、他者からの評価としては“罪のない無垢な者”と写っていたのですが、彼自身、自らを見つめたとき、“至らぬ者”であることに気づかされたのです。
そのためヨブは神様に向かって「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ記42章6節)と語ります。
ヨブが悔い改める必要のある者であることに気づくためには、苦難が必要だったのでした。
「わたしたちの気づき」
実際に病気という苦難を負うと、今まで気づかなかったことに気付かされます。それまでは見えている様で見えていなかった周囲の憐れみに気付かされたり、また自分自身の弱さにも気付かされます。そして弱いゆえに周囲の助けがあってこその自分であることにも。(西川の入院手術のエピソードを含める)
「神様の意図」
神様はどうやら「人にとって利益のあるもの」ばかりを人に提供されるのではなさそうです。病気や障がいを含む苦難(それらを苦難と認識しない考え方もありますが)を提供されるのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章18節、22節でこの様に記しました。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います」(18節)
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(22節)
パウロは「被造物はすべて、産みの苦しみのような苦難を味わうことになるが、それで終わりではなく、将来、栄光という恵みが与えられる」と語ります。
これはパウロ自身、手紙を書いた当時、ローマ帝国の迫害に遭い、さらには同僚である他のキリスト者たちも迫害で苦しんでいました。この様な中で、紡ぎ出された言葉でした。またパウロ自身、詳細は分かりませんが「とげ」という病を負って日々を過ごしたので、その日々の中から記した言葉でもありました。
パウロは“苦難は恵みへとつながっている”と語るのです。
それは同時に、“神様の苦難を人へ与えられる意図は、それを通して人を恵みへと導くため”と言い換えられるでしょう。
「障がいのある人」と共に
中部教区に「『障がい者と教会』委員会」というものがあり、毎年、どの様な活動をされたかの報告書が出されています。その2018年度の報告では、名古屋にあります「愛美の会」理事の戸田真二さんの講演の様子が掲載されていました。
その文章の中で戸田さんは以下の様に語っています。
「西洋的な感覚で言うと、20人に1人が障がいを持って生まれてくる。これは生物学的にも、ずっと昔から、必ず一つの集団の中には何割かの障がい者がいて、一つの社会が構成されている。西洋の人、皆さんがそうだということではなく、自分はたまたま健常者(健常者という言葉は嫌いなんですが)、たまたま私は何の不自由もなく生まれてきた。すると、障がいを持って生まれてきた人たちは、私の代わりに生まれてきたという考え方の人たちが結構いるんです。そうすると、障がい持った方たちがいろんな不利益をこうむらないように、社会が守っていくのは当たり前だというのです」
教会の姿として
自分は病気の人と障がいの人と関わる人生を生きている。
自分も病気になり、また、障がい者になる。
しかし病気も障がいも苦難という一言だけ言い表されるのではなく、それらが恵みへとつながる経験となる。
聖書や、その聖書に基づいて歩まれる人からのメッセージを聴く限り、この様な認識にさせられます。
望む教会の姿は、この様な認識を抱く人々が集まり、ときに葛藤しながらも、共に歩もうとする姿ではないでしょうか。
参考文献
・樋野興夫「聖書とがん 『内なる敵』と『内なる人』」イーグレープ、2020年。
・日本基督教団中部教区「障がい者と教会」委員会「2018年度中部教区『障がい者と教会』委員会報告書」

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